著名人が母親との思い出を回顧します。今回の語り手は、阿刀田高さん(作家)です。
母には孝行らしい孝行をなにもしなかった。人生を省みて痛恨の極みである。
母はこよなく私を愛してくれた。なによりも大切と考えていただろう。ベタベタとかわいがるのではなく、深く愛し、期待し、幸福を願ってくれていたにちがいない。私は5人兄姉の末っ子。高校2年のときに父を失い、兄姉たちはおおむね家を去り、私は大学の文学部に進んだものの、2年生のときに肺結核にかかり、入院生活を余儀なくされていた。ストレプトマイシンの普及などもあって命を取り留めたが、数年前に姉を同じ病で失っていた。療養中の志望は、
——新聞記者か編集者になりたい——
と願っていたが、生活は厳しい。
療養所では時折外泊を……1日か2日家へ帰ることが許される。あるとき母から「相談があるから」と言われて帰宅すると、母方の祖母や叔父が来ていて、宮城のほうの親戚で医師のところに子どもがいないので「養子に行かないか」という話だった。私は中学生のころ医師を志望したことがあったのだ。
私は即座に、けんもほろろに断った。自分の将来について不確かながら一定の思案があって、あらためて医業を考える余地はなかった。そのとき母がどんな様子で、どんな表情だったか、見もしなかったのだろう。まったく覚えがない。相談はすぐに終わって、祖母と叔父は去っていった。1時間もかからない簡単な出来事……。
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source : 文藝春秋 2022年1月号