安倍氏
次世代のリーダーの条件とは
昨年11月、清和政策研究会の会長に就任しました。我が人生を振り返ると、初当選を果たしたのは1993年。議員生活30年も間近です。これも、一つの節目であるように感じます。
はや私も67歳。思えば父の安倍晋太郎はおよそ30年前の1991年5月、67歳でこの世を去っています。1986年に清和会会長に就任し、次期総理と目されるなかでの病死でした。いよいよ、あの時の父の年齢を超えていくのかと、感慨深いものがあります。
この30年、国際情勢はもちろん、国内の政治・経済は構造的に大きな変化を遂げました。今後も変化は加速していくと予想され、次世代の政治リーダーは非常に難しい舵取りを迫られることになります。
そこで今回は私の総理としての経験も踏まえつつ、日本はこの難局をどう乗り越えるべきか。そして、次世代のリーダーの条件について、お話ししたいと思います。
インターネットが政治を変えた
まず国内の政治に目を向けると、この30年間で2つの大きな変化がありました。一つは選挙制度の変化です。私が初当選した頃は、中選挙区制で派閥政治の全盛時代。さながら戦国時代のような激しい権力闘争が繰り広げられていました。それが、翌94年に小選挙区比例代表並立制が採用されてからは、派閥の合従連衡中心の政治は徐々に姿を消していきます。また選挙においては、党の顔である総裁の人気や知名度、候補者の掲げる理念や政策が、当落を左右するようになったのです。
もう一つのインパクトは、インターネットの登場でした。若者世代はテレビや新聞などのオールドメディアではなく、ツイッターなどのSNSから情報を仕入れるようになった。安倍政権は若者世代から一定の支持を獲得していましたが、SNSの積極的な活用も功を奏しました。だからこそ、テレビや新聞が政権批判一色だった時でも、継続的な支持をいただくことができたのだと思います。対照的に、オールドメディアの影響力は、局所的なものになってきています。
国際社会に目を転じると、政治も経済も、グローバル化が急速に進行しました。首脳会談も昔と比べて遥かに回数が多くなりました。たとえば、私より以前に歴代最長政権だった佐藤栄作元首相でも、外遊は延べ11回に過ぎません。一方、私はロシアのプーチン大統領との首脳会談だけを数えても、27回にもなる。首脳会談は計1075回、訪問先は延べ176の国・地域と桁違いの数字となりました。
つまり、首相官邸が外交力を発揮する時代になった。党内や省庁間での議論はもちろん大事ですが、それぞれの利害調整に時間を要するため、スピード感を伴う意思決定は難しい。国際社会の急激な変化に対応するには、官邸が強力なリーダーシップを発揮する必要があるのです。官邸外交は世界ではすでにスタンダードで、各国はNSC(国家安全保障会議)を通して外交安全保障政策を進めていました。日本も2013年に首相直轄のNSCを創設。外交・軍事・情報を官邸で一元化し、政治的決定をおこなうことが可能になりました。
中国に対峙するビジョンを持つ
これからの10年を考えると、日本が直面する最も大きな課題は、中国の台頭です。日本のみならず、世界にとって最大の懸念事項になるでしょう。
そもそも私は第1次政権発足時から、外交安全保障上、日本の一番の課題は中国になると考えていました。アメリカの政治学者、マイケル・ピルズベリーが『China 2049』で指摘したように、2049年までの世界覇権の獲得に向けて、中国が長期的戦略を持っていることは間違いありません。日本は何十年後も先を見据えた上で、対中戦略を練る必要がありました。同時に、日中関係だけではなく、世界全体を俯瞰して戦略を立てなければなりません。中国の台頭とともに、アジア太平洋のパワーバランスは大きく崩れ始めていた。そこで、まずは力の均衡を取り戻すことに注力しようと決めました。
中国の脅威に対抗するために、日米同盟は必要不可欠です。しかし、それだけでは不十分。そこで日米同盟に加え、関係各国との連携を強化しようと提案したのが日米豪印4カ国での戦略対話「クアッド」です。2007年に対話を呼びかけましたが、当時は残念ながら、局長レベルの会合を1度やったきりで頓挫してしまった。時期尚早だったのでしょう。それから紆余曲折はありましたが、各国の中国に対する見方も一致してきました。外相レベルの対話を経て、昨年9月に首脳会談が実現しました。
さらに有志国と一つの大きなビジョンを共有すべく、2016年に参加したアフリカ開発会議では「自由で開かれたインド太平洋」の構想を提唱。インド太平洋地域の平和と安定のため、普遍的な価値観を共有する各国の連携強化を訴えました。アメリカのトランプ政権(当時)はいち早く賛同。欧州諸国は当初こそ中国の脅威に楽観的でしたが、最近は危機感を強めている。イギリスやフランスはフリゲート艦や空母をインド太平洋地域に派遣し、当該地域へのコミットメントを高めてきています。
経済安全保障の重要性
一方、経済面で見れば、中国は日本にとって最大の貿易相手国です。2004年に日本の対中貿易総額は対米貿易総額を上回り、今でも両国は強力な互恵関係で結ばれている。単純に考えれば、中国の台頭は日本の経済にとってプラスになり得るのです。ただ、それはあくまで中国が国際的なルールを守ることが前提条件。そして、安全保障の観点から経済を見ていく必要があります。場合によっては一定の介入や制限をおこなう「経済安全保障」の考え方が求められます。
いち早く動いたのはアメリカでした。2020年には、中国の通信機器大手・ファーウェイの製品が国家安全保障面での脅威になるとして、自国の通信インフラからの排除を決定しています。
アメリカを嚆矢として、他のG7諸国もファーウェイの排除を検討し始めました。決して名指しはしませんでしたが、日本は最も早く決断を下した国のひとつです。ファーウェイの部品はすでに日本の通信インフラの一部に組み込まれていたため、かなり難しい決断ではありました。ただ、NECや富士通をはじめとした日本企業は、中国に比べるとコスト面では劣るものの、高度な技術力を有している。他の同志国と協力して対応にあたれば、決して不利な状況にはならないだろうと考えました。
また中国は巨額のインフラ投資政策「一帯一路」を進めています。これにともない、2015年、AIIB(アジアインフラ投資銀行)が設立されました。中国は途上国に莫大な投資をし、債務を返せなくなった国の港湾を長期で租借するといった横暴なふるまいをしていたため、日米は警戒感を強めていました。ところがイギリスをはじめ欧州主要国も雪崩を打つように参加し、足並みが乱れ始めたのです。
そこで日本は、中国に「開放性、透明性、経済性、債務持続可能性」の4つの条件を突きつけたのです。中国は非常に嫌がりましたが、最終的にはこれを呑み、中国を含めた大阪G20での合意事項となりました。このように、中国には関与して正しい方向に導いていくことが求められます。
また、安全保障については毅然とした態度で臨まなければなりません。第2次政権までの10年、日本の防衛費は右肩下がりでしたが、第2次政権以降は一定して増やし続けてきた。さらに2015年に成立した平和安全法制で、日米同盟の絆を一層強固なものにしました。アメリカの艦船や航空機を日本の自衛隊機や自衛艦が防護するのは、今や日常的な光景です。中国の軍事的拡張に対しては、我が国の意思を明確に示していくべきだと考えます。
国際秩序形成への取り組みについて、日本は長い間、ビジョンを世界に示したり、リーダーシップをとることはあまりありませんでした。これは日本国憲法の前文に因るところが大きいと考えています。
〈平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した〉
日本は常に控えめな立場を守ってきました。しかし、これからは積極的に国際秩序のビジョンを示して、国際協調やルール作りを主導していかなければなりません。それは日本の国益に繋がります。
ルールメーカーになることで、得るメリットは数多くあります。たとえば日本はTPP(環太平洋経済連携協定)に創立メンバーとして参加し、枠組み作りを主導してきました。TPPには中国も加盟申請し、韓国も意欲を示していますが、日本はこれらの国に「このハードルを越えて来い」と、条件を意見することも出来るわけです。
李登輝、チャーチルに学んだ「闘う政治家」
「闘う政治家であらねばならない」
私は初当選以来、このような決意を抱いて政治家を続けてきました。その原点には何人かの政治的リーダーの存在があります。
最も強い印象を受けたのは、台湾の李登輝元総統です。李総統に初めてお会いしたのは1994年9月、自民党の青年局に入ってすぐのことでした。青年局は党内における台湾との交流窓口のため、活動の一環として台湾を訪問する機会がありました。その時、李総統が時間を割いてくれたのです。さまざまなお話を伺うなかで、台湾を愛する気持ちの強さに感激したことを、今も鮮やかに覚えています。自分が先頭に立って、台湾を守り抜く——強い責任感、使命感、自負心が伝わってきました。
李総統は高い理想を持ちながら、したたかな現実主義者でもありました。1971年に政界に進出し、大陸にルーツがある国民党に入党。国民党は台湾で市民を弾圧したため、本心では国民党のことを快く思っていなかったはずです。ただ、反政府運動をおこなうより、与党にいたほうが政治的目的を達成できると考えたのでしょう。蔣経国総統の下で台北市長、副総統と階段を駆け上がり、88年に総統になると、民主化への道を切り拓いていきました。民主化の過程では、中国からの巨大な軍事的圧力にも負けなかった。まさに、闘う政治家です。
英国で第2次大戦中に首相を務めたウィンストン・チャーチルも、端倪すべからざる政治家です。日米開戦を促した人物であり、評価は複雑なものがありますが、彼の不屈の精神力は驚きに値します。チャーチルは卓越した先見の明を持ち、ヒトラーの危険性を早くから訴えていました。どんなに批判を浴びても、自分の判断が正しいと確信し、結果的にはナチスドイツとの戦いに勝利します。「いかなる犠牲を払っても祖国を守り抜く。断じて降伏はしない」と訴えた彼の演説は、今の日本人こそ噛みしめるべきものかもしれません。
同時代に英国で議員を務めたアーサー・グリーンウッドも闘う政治家でした。彼は1939年、ヒトラーとの宥和を進めるチェンバレン首相に対し、野党を代表して質問に立ったものの、首相の答弁に押されていた。その時、与党の保守党席から「アーサー、スピーク・フォー・イングランド(英国のために語れ)」と声が飛んだのです。グリーンウッドはその声に勇気づけられ、対独開戦を政府に迫る歴史的な名演説をおこないました。
彼ら3人のように、ここ一番の大勝負で強い信念を持って闘えるか。それが政治家の仕事だと思います。
ウィンストン・チャーチル
政権は「継続こそ力なり」
私自身はどのように闘ってきたか。まず、第1次政権(06年9月~07年9月)では、教育基本法の改正、防衛庁から防衛省への格上げ、憲法改正の国民投票法の制定、国家公務員法改正などを成し遂げました。ただ、いささか急ぎ足であったため、短期間で相当な政治的資産を使い果たしてしまった。その結果、2007年の参院選では敗北を喫します。私自身も肉体的な限界を迎え、政権を続けることが不可能になってしまった。不安定な形で政権を引き継ぐことになり、2009年の自民党の下野へと繋がったことに今でも責任を感じています。
政権とは、継続することで本来の力を発揮できる——これが第1次政権で得た学びでした。安定した政権を長く継続できれば、外交力を発揮して国際社会での地位を高めていける。そうすることで、憲法改正のような難しい課題、しかし国のためにやらねばならない課題を、時機をみて適切に実行していけると気づいたのです。
経済再生で2回の増税を果たす
2012年12月の解散総選挙では、第1次政権の反省を踏まえ、国民の期待に応えることが最も大切だと考えました。当時、国民が求めていたのは、まず何よりも経済の再生でした。2012年12月の指標では、正社員の有効求人倍率が0.53倍、就職内定率は74.8%で就職氷河期よりも悪い数字だった。この情勢を踏まえ、総選挙で我々は「日本を、取り戻す。」というキャッチフレーズのもと、強い経済を取り戻すことを約束しました。その結果、自民党は圧勝。「この経済を何とかしてくれ」という国民の悲痛な叫びが、我々を政権奪還へと導いたのだと思っています。
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source : 文藝春秋 2022年2月号