「無名作家」の見た曙光

菊池寛アンド・カンパニー 第9回

鹿島 茂 フランス文学者
エンタメ 読書 歴史

発表の場を失い、同人に否定されても書き続けた

芥川は「ジャン・クリストフ」に熱中

 第四次『新思潮』の同人となった芥川龍之介と旧南寮グループの久米正雄、松岡譲、菊池寛を結びつける接着剤の役割をしたのは双方と同室だったことのある成瀬正一だったが、成瀬は芥川と菊池寛をより強く結びつける働きもしていたのである。

 その接着剤的効果は、菊池が大正3年(1914年)7月1日に夏期休暇で京都から白金三光町の成瀬邸に戻ってから2日後の7月3日、2人が連れ立って芥川邸を訪れたときに最初に発揮された(大西良生『菊池寛研究資料』)。

「私は、芥川とは高等学校時代、少しも親しくなかった。京都へ行って、上京したとき芥川と話したときから、江戸文学や外国文学に対する共通の興味から、だんだん親しくなって行った」(『半自叙伝』)

 あるいは、菊池寛はこのとき芥川との会話を通して、類似点のほかに相違点にも自覚的になったのかもしれない。というのも、彼が京大の研究室で読み漁ろうと思っていたのはシング、イエーツ、ダンセイニなどのアイルランド戯曲だったのに対し、芥川と成瀬がこの頃に熱中していたのはロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』だったからである。

 最初にロランを発見したのは芥川だった。芥川は丸善で買ったジルバート・カナン訳の英訳版『ジャン・クリストフ』を読んで感心し、これを成瀬に薦めたのである。一方、成瀬はというと、同じ白金三光町の高台に住む元外交官・山田忠澄の次女ハナからフランス語を習い始め、日仏ハーフのこの美少女への恋心から急にフランス語の勉強に熱が入っていたところだったので、芥川に薦められた『ジャン・クリストフ』に即座に反応し、英訳本を全巻買い揃えるとさっそく読み始めたのだった。

 なお、この山田ハナについては、関口安義『評伝 成瀬正一』(日本エディタースクール出版部)が詳しい。「山田ハナは当時十六歳の少女だった。一八九八(明治三一)年、リヨンに生まれ、十歳まで当地の学校エドガル・キネ女子校(リセ)で教育を受けた。母親はマルグリット・ヴァロと言い、姉に一歳上のキク、弟に五歳年下の順太がいた」

 姉のキクとは後年フランスに渡り、日本文学の紹介に貢献したあのキク・ヤマタである。こうして、成瀬は芥川と議論しながらロマン・ロランへの理解を深め、ついには『トルストイ』の翻訳の諾否を問い合わせる手紙を出し、承諾の返事をもらって狂喜することになるが、詳細については後回しして、ここでは「菊池寛 アンド・カンパニー」の形成に話を戻そう。

 まず、菊池寛からいくと、今回の上京にはもう一つ、高等学校卒業検定試験の受験という目的があった。

「翌年京都の選科にいて、一高へ高等学校卒業検定試験を受けに来たとき、そんなによくは出来なかったが、無事に通過したのは、学校の当局者に僕に対する好意があったためだろう」(『半自叙伝』)

 これにより、菊池寛は京都帝大文学部本科に移籍し、学位の取得も視野に入ってきたのである。

アイルランド戯曲に魅せられた菊池寛

 ところで、夏休みのあいだに芥川と話して発奮材料があったからなのだろうか、菊池寛は京大の2年になると『不二新聞』や『中外日報』への筆名での雑文の寄稿は続けるものの、創作はぱったりと発表しなくなる。アイルランド戯曲の集中的読書により、いままでの創作の不十分性を自覚したためと思われる。

 では、なぜアイルランドの劇作家たちに菊池寛がこれほど魅せられたのかといえば、それはイングランドと異なり、アイルランドは日本と酷似していることを発見したからにほかならない。

「英国(イングランド)と愛蘭土(アイルランド)とは人種を異にし、歴史伝統を異にし、其他の凡てを異にした全く違つた別な国である。如何なる場合にも、英文学と愛蘭土文学とは豌豆と真珠のやうに違つたものである。

 愛蘭土は凡ての点に於て日本そつくりである、愛蘭土の戯曲に出て来る人物は孰(い)づれも初対面とは思はれぬ程、日本人には馴染みの人達である。愛蘭土の農家には日本の百姓家に於ける如く炉があつて其処には泥炭が赤く燃えて居る。愛蘭土の戯曲に出て来る母親は欧洲の戯曲に見るやうな自我的(イゴチスチツク)な母親ではなくて、常に自分以外の人の事のみを心配して居る優しい母親である、兄弟喧嘩も日本そつくりのものである、人間も激し易く悲しみ易く又喜び易い、結婚制度も欧洲の夫(それ)のやうな自由意志に基づくものでなく、日本の夫のやうに不純な動機からで、随つて結婚から起る悲劇も日本の夫と甚だよく似て居る」(「シングと愛蘭土思想」、『昭和モダニズムを牽引した男 菊池寛の文藝・演劇・映画エッセイ集』清流出版)

 エマニュエル・トッドの家族人類学的な観点に立つと、アイルランドと日本は、ユーラシアの辺境ということで起源的な核家族の基層が強く残り、その上に、土地の狭隘さから発生する直系家族が乗った複合型の家族類型ということになるが、菊池寛はこの類似を100年以上も前に発見していたのである。

 では、菊池寛がこのようにアイルランド戯曲の中に日本との類似性を発見し、そこに着想を得て創作に力を入れだしたのかといえば、むしろ逆だったのである。第三次『新思潮』が大正3年9月の第8号をもって休刊になったため、創作発表の場を失ったことも大きかった。

2209菊池①
 
京大卒業時の菊池(左)

東京の友人への激しい嫉妬

 となると、残る可能性は1つしかない。上田敏にその才能を認められて文壇の雑誌にデビューを果たすことである。つまり、菊池寛は京大1年時に同人雑誌創刊を企てながら上田敏の後援が得られずに失敗した経験があるにもかかわらず、再び文壇へのアクセスを上田敏に頼らざるをえなくなったのである。しかし、結論からいうと、その試みは再び挫折に終わる。その経緯は『無名作家の日記』にほぼそのまま語られている。

 中田博士(上田敏)の自宅を初めて訪問した「俺」は挨拶が済むとすぐに自作の戯曲『夜の脅威』を手渡した。すると博士は「なるほど」とうなずき、「孰れ拝見して置きましょう」と静かに付け加えた。「よかったら、何処かの雑誌へ」などと言い出す勇気は「俺」にはなかった。東京の友人たちの同人雑誌が出て激しい嫉妬を覚えた「俺」は、彼らの雑誌に対抗するには、「彼奴と同時に、文壇へ出て行く」しかないと決意し、博士の『夜の脅威』に対する評を聞くため、自宅を再び訪問する。ところが、博士は当惑しながら、まだ読みかけなのでいずれ読んだうえで批評しようと答えた。そうしているうちに同人誌になにか書かないかと誘いがあったので、「俺」は博士に預けてある戯曲を返してもらうために自宅を三訪する。博士は「君の脚本を預かって居たっけ」といいながら『夜の脅威』を書棚の一隅から探しだし、「活字になった上で、纏った批評をしましょう」と逃げる。「俺」は博士の「極度に無関心な態度を寧ろ尊敬した」。

「中田博士」とのやりとりには妙なリアリティがあるので、上田敏は実際にこうしたセリフを吐いたのだろうと思われるが、しかし、実際に原稿を預けたか否かについては疑問が残る。というのも、同じような上田敏との葛藤が描かれている『葬式に行かぬ訳』には、原稿ではなく第四次『新思潮』を献呈したのに読んでくれなかったとあるからだ。また、預けた『夜の脅威』が『藤十郎の恋』だったのかということについても不確定だ。

 ただ一つだけ確かなのは、『無名作家の日記』『葬式に行かぬ訳』それに『半自叙伝』のいずれにおいても、上田敏を介して文壇に登場するという菊池寛の野心は上田敏の無反応によって完全に潰えたという事実である。

2209菊池③
 
菊池寛

かなわぬ夢と『新思潮』の復刊

 では、こうした個人的な感情を別にすると、菊池寛は上田敏をどう評価していたのだろう。

「私は学問的に云えば、厨川[白村]博士の方が勉強家で根よく読んでいたような気がする。上田博士は、研究努力と云うよりも自分の鑑賞趣味でよんだ程度に過ぎない人ではないかと思う。(中略)

 だが、厨川博士と上田博士と、どちらが文芸に対して理解があったかと云うと、これは問題もなく上田博士の方が上だったと云う気がする。厨川博士は、僕の作品などについても素人でなければ賞めないようなものを賞めていた。上田博士が、文芸を談ずるときは、文芸を真に味読するものの歓喜があったように思う。結局この人は学者よりも、学者的なヂレッタントでなかったかと思う」

 だからこそ、上田敏からの評価がほしかったのだが、それはかなわぬ夢だった。

 しかし、この大正4年の11月下旬頃を境に、菊池寛を巡る状況も大きく変わってきたのである。

 その遠因を探ると、それは先に触れた成瀬のロマン・ロランへの熱中がある。成瀬がロランにファンレターを出すとロランから返事が届き、両者は往復書簡を交わすようになったが、そのうちに成瀬がロランの『トルストイ』の翻訳を思い立ち、芥川・久米・松岡と一緒に翻訳に取り掛かろうという話になったのだ。さらに翻訳の相談をしているうちに、休刊になって1年以上たつ『新思潮』を自分たちの手で復刊しようという話に発展したようだ。『トルストイ』の翻訳が売れれば、第四次『新思潮』発行の資金源にもなり余計都合がいい。

2209菊池②
 
上田敏

「僕も、2、3円なれば出せる」

 このように『新思潮』復刊計画が進む中、成瀬は11月25日から家族とともに関西旅行に出て、12月1日に京都の菊池寛の下宿を訪れる。というのも、成瀬の弟の俊介が第三高等学校に合格し、菊池寛をお目付役に京都で一緒に下宿するようになっていたからだ。関口安義の『評伝 成瀬正一』にはこうある。

「一九一五(大正四)年十二月一日、成瀬と会った菊池は、東京の友が熱に浮かされたように興奮し、新たな出発をしようとしているのを知った。この時、成瀬は新しい雑誌刊行の動きがあることを語ったのであろう。やがてそれは久米正雄からの第四次『新思潮』へ参加するようにとの便りとなって具体化する。すでに記したように、新しい雑誌の計画がモノになりそうだとの話が久米から出るのは、成瀬が関西からの旅から帰った翌日の十二月五日であった。その翌日の『成瀬日記』には『同人は久米、芥川、松岡、菊池と私である』とメンバーの名が記され、この時点で、すでに五人の仲間の同志的結合は成っていたのである。

 菊池寛をメンバーに入れたのは、成瀬の強力な推薦による。成瀬には菊池のパトロンという立場があったし、また他の仲間以上に京都へ行った菊池と接触があり、その寂しい気持ちもわかっていた」

 事実、帰京した成瀬は芥川、久米、松岡の3人と12月5日に湯島の「江知勝」で第四次『新思潮』発行のための集まりを持ち、その日のうちに久米が菊池寛宛に参加要請の手紙を書いたのである。

 では、これに対する菊池寛の反応はどうだったのだろう? 返事はだいぶ遅れて大正4年12月30日に投函されている。

「雑誌発刊のこと成瀬よりもきいた。活字になる當がなければ書けないほど創作発作尠い僕は雑誌がなければ何もかけないのだ。君たちの努力によつてものになる事を望みかつ信じてゐる、僕も、二、三円なれば出せる」(大西良生『菊池寛研究資料』)

 この菊池寛の承諾の手紙が到着したことによって、第四次『新思潮』は芥川龍之介、久米正雄、松岡譲、成瀬正一、それに菊池寛の5人を同人にして、創刊準備に入った。そして、それは結果的に、菊池寛 アンド・カンパニーの誕生を意味していたのである。

芥川龍之介に悪作と評された『藤十郎の恋』

 第四次『新思潮』は会費を同人から徴収することとなった。分担金の額については、松岡の「若き日─『新思潮』時代の思ひ出」(『文学クラブ』)、菊池の「『新思潮』時代の思ひ出」(『文章倶楽部』)、久米の「風と月と」(『サンデー毎日』)に記載があるが、それぞれ微妙に違っている。それを均すと、芥川、久米、松岡の3人は3円から5円、成瀬だけが15円から35円、菊池は出世払いで成瀬が立て替える、ということになった。

 雑誌創刊のための準備と相談は本郷の久米の下宿で行われたが、発行所は電話がないと困るということで白金三光町の成瀬宅に置かれ、大正5年2月の創刊に向けて同人たちはそれぞれ創作に取り掛かった。芥川は『鼻』を、久米は短編『父の死』を、成瀬は短編『骨晒し』を、松岡は戯曲『罪の彼方へ』を書きあげたのである。

 では、菊池はどうしたのだろうか?

『無名作家の日記』が真実だったなら、上田敏に預けてあった『藤十郎の恋』を返却してもらい、それをそのまま第四次『新思潮』に送ったということになるが、実際には、『藤十郎の恋』は同人参加依頼を受けて、菊池寛が大急ぎで書き下したのではないかと思われる。というのも『藤十郎の恋』は400字詰め原稿用紙で15枚ほどの短い戯曲だったからである。

 この『藤十郎の恋』に対して同人たちが下した判定はどうだったのだろうか?

 菊池寛から直接原稿を送られた松岡は比較的好意的だったが、次に読んだ芥川はこれを全否定した。後年、芥川は「あの頃の自分の事」という回想でこの時のことを書いている。

「テエマが面白いのにも関らず、無暗に友染縮緬のやうな台辞が多くつて、どうも永井荷風氏や谷崎潤一郎氏の糟粕を嘗めてゐるやうな観があつた。だから自分は言下に悪作だとけなしつけた。成瀬も読んで見て、やはり同感は出来ないと云つた。久米も我々の批評を聞いて、『僕も感服出来ないんだ。一体に少し高等学校情調がありすぎるよ』と、同意を表した。それから久米が我々一同を代表して、菊池の所へその意味の批評を、手紙で書いてやる事にした」

 久米からの手紙を受け取った菊池寛はどう反応しただろう?

原稿は「単なる間に合はせであった」

『半自叙伝』には次のように書かれている。

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source : 文藝春秋 2022年9月号

genre : エンタメ 読書 歴史