「京都の孤独な夜」 “東京組”の友情が彼を文壇に押し上げた

菊池寛アンド・カンパニー 第8回

鹿島 茂 フランス文学者
エンタメ 読書 歴史

■菊池寛 アンド・カンパニー〈完結〉

第1回 オルタナティヴな雑誌

第2回 月給八円の呪い

第3回 百舌の博士

第4回 英語天才伝説

第5回 恋する18歳

第8回 京都の孤独な夜 今回

第24回 昭和12年の「空気」

第25回 怖ろしい時代の予感

第26回 「文藝春秋」休刊

第27回 菊池寛なき文藝春秋

第28回 菊池寛、逝く

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鹿島氏

「選科生たることに絶えず屈辱を感じていた」

「九月十三日。

到頭京都へ来た。山野や桑田は、俺が彼等の圧迫に堪らなくなって、京都へ来たのだと思うかも知れない」

 これは菊池寛が大正7年7月に『中央公論』に発表して文壇的地位を確立した『無名作家の日記』の書き出しである。フィクションの中の日付は案外、現実を正確に反映しているというのがわれわれの立場であるから、菊池寛は京都大学英文科選科に入学すべく大正2年(1913年)9月13日に京都にやってきたと見なしてよい。

 ただ、一つわからないのは入試がいつ行われたのかということだが、常識的に考えて入試が9月というのは遅すぎるから、受験は7月に京都でなされていたにちがいない。ちなみに、『半自叙伝』には「選科入学には、試験があるので随分心配した。学力の点では、充分自信があったが、しかし万一入れないと行きどころがないからである」とある。入試の作文の課題は国民文学論というテーマだったので、菊池寛はオスカー・ワイルドの言葉を引用したが「象徴的」を「衆徴的」と書いてしまい冷や汗をかいた。しかし、合格は果たせたのである。

 とはいえ、入学はしたものの、選科生であるということがコンプレックスとなったようである。

「僕は選科生であるから、一隅に小さくなっている外はなかった。自分は、学問には自信があったから、選科生たることに絶えず屈辱を感じていた」

鹿島連載③
 
菊池寛

「夜が来るとたまらなく、淋しくなって」

 しかし、菊池寛が孤独感を強めたのは、そうした格差ゆえの劣等感ではなかった。耐え難いと感じたのは、文学を語るべき友が京大には一人もいないということだった。

「一高時代には、何と云っても、文芸第一主義で、従って文芸は錦の御旗だったが、ここではそうでなく、その点では全く田舎だった」(『半自叙伝』)

 文学好きはほとんどおらず、英語教師になるために英文科を選んだ学生が大半だった。

「此の大学の文科の連中は、何うして、ああ揃いも揃って救われない人間ばかりが、集まって居るのだろう。殊に俺のクラスの奴等はひどい」(『無名作家の日記』)

 教師が黒板にBaudelaire(ボードレール)と書いたところ、これを「バウドレア」とドイツ語読みにした学生がいたし、「先生! 今お話になったヴェルレエヌと云う人は、何う云う人です」と質問した学生もいた。ようするに、みな英語に興味はあっても文学にはまったく興味のない勉強家の集まりだったのである。

「たった一人で、語るべき友垣もないと云うわけだった。夜が来るとたまらなく、淋しくなって京極まで散歩に行った。どんなに寒い冬の晩でも、必ず出かけなければならなかった。京都の冬の夜の寒さは、冷徹を極めている。そんな晩に、マントなしに歩くのは、たまらなかったが、それでも歩かずにはいられなかった」(『半自叙伝』)

 一高時代は文学を心から愛する良き友やライバルに恵まれていたから、京都での孤独は相当に堪えたのである。マント事件は何だったのかという後悔の念も起こってきたにちがいない。そうなると余計に気になるのはほぼ全員、東大に進学した一高の友人たちのことである。このときの焦りの気持ちは『無名作家の日記』によく表現されている。

「何となく落着けない。殊に夕暮が来るとそうだ。青い絨毯を敷き詰めたように、拡がって居る比叡の山腹が、灰色に蒼茫と暮れ初むる頃になると、俺は立っても居ても、堪らないような淋しさに囚われる。(中略)而も、俺の孤独の淋しさの裏には、烈しい焦燥の心が、潜んで居る」(『無名作家の日記』)

 しかし、この京大時代の孤独と焦燥が作家・菊池寛を生む酵母になったことは間違いないのだ。これがなければ菊池寛は表現者とならなかったかもしれないのである。

 では、こうした精神の危機が訪れたのはいつだったのかというと、それは大正2年の晩秋から冬にかけての時期、つまり京大に入ってから2カ月くらいたった頃のことではないかと思われる。しかし、子細に調べると、この時期に菊池寛はただ悶々としていたわけではないことがわかってくる。ヒントは『半自叙伝』で語られたエピソードの中にある。

 京都1年目の大正2年11月8日、河合武雄の「公衆劇団」が「茶を作る家」という作品をひっさげて京都にあらわれ、明治座で興行を打ったことがある。久米正雄の薦めもあって、菊池寛は15銭で4等の切符を買って劇場に入り、隣席の職人風の男に得意になって芝居の見所を説明していた。物売りが来たので、蟇口を取り出して何かを買った。しばらくして、便所に立ち、廊下で人の肩越しに芝居を見ていると、後ろからのしかかるようにした者がいた。袂に手をやると蟇口がなくなっている。のしかかってきた者が犯人と思ったが、それは劇場の売り子だったので騒ぎが大きくなった。このときになってようやく蟇口はさっきの職人風の男にすられたと気づいたが、後の祭りだった。

 蟇口にあった6円は成瀬家からの仕送りの全額だった。次の仕送りまで20日もある。どう暮らそうかと思案にくれたが、翌日、配達された「万朝報よろずちょうほう」に目をやると、2カ月前に菊池春之助というペンネームで投稿したまま忘れていた「禁断の木の実」という小説が当選しているではないか。

「その懸賞金は十円で、とられた金を差し引いても、まだよ円残るのである。私は、うれしかった。何だか天の摂理と云うものがあるようにさえ感じたのである」(『半自叙伝』)

 菊池寛はこの金で大和地方に旅行したと書いているが、伝記作者にとって気になるのは、彼がこの時期に「万朝報」へ投稿していたという事実の方である。

 そう、菊池寛は孤独に苛まれ、東京に残してきた「カンパニー(仲間)」たちのことを思って焦燥に駆られながら、新聞、雑誌への投稿を再開していたのである。

芥川龍之介を凌ぐ健筆ぶり

 このことは片山宏行が、京都時代に菊池寛が投稿した新聞や雑誌を渉猟し、その詳しい分析を行った論稿「京都時代の菊池寛―ロマンチストの内実」(『菊池寛の航跡 初期文学精神の展開』)を読むとよくわかる。同書に拠れば、京都到着以後に菊池寛の投稿が残った新聞・雑誌は大正2年10月19日「『死の勝利』を読みて」(「読売新聞」)。同年11月9日「禁断の木の実」(「万朝報」)、同年12月「流行の将来」(『三越』)とかなりの頻度になる。この最後の『三越』への投稿については『半自叙伝』にも書いてある。

「『三越』が、『文芸の三越』と云う宣伝文芸の募集をした。(中略)そのとき僕は『流行の将来』と云う課題に応募し、三等に当選して五十円を貰った。(中略)この五十円の金は、自分には大金だった」

 ちょうど、妹が結婚するタイミングだったので自分への仕送りで迷惑をかけている実家への罪滅ぼしとして25円を送金した。

 この僥倖に味をしめたのだろうか、明けて大正3年になると、投稿は頻度を増す。1月15日「お七馬上外一篇」を皮きりに、3月21日まで「不二」という大阪のローカル紙に8回も投稿しているのである。ついで4月からは京都のローカル紙「中外日報」への連続投稿が始まり、大正3年4月12日から大正4年1月15日まで都合21編を寄稿している。内容は文芸評論、社会時評、短編小説、それに戯曲、さらには文壇時評までじつに多彩である。片山宏行が指摘するように、「その健筆ぶりは同じ時期の芥川や久米らをはるかに凌ぐものであり、少なくとも大正3年の菊池に関しては、第三次『新思潮』くらいしか文章発表の場はなかったというような印象は改める必要がある」

 しかも、その投稿・寄稿を読むと、孤独と焦燥に悶々として投稿・寄稿を繰り返していたのでは決してなく、小オルガナイザーとして京都で文芸復興の運動を起こそうとして動き回っていた事実が明らかになる。ひとことでいえば孤独と焦燥の時期は大正2年のうちに終わり、大正3年から活動期に入ったのだ。

鹿島①
 
第三次『新思潮』メンバーの芥川龍之介(右から2人目)ら

「決して東京の連中に負けはしない」

 それがわかるのは「中外日報」大正3年5月8日号に載った「京都芸術の為に」という、担当記者・石丸梅外に呼びかけるかたちの公開書簡である。そこで、菊池寛は自分たち同人が相国寺近くの部屋に集い、沈滞気味の京都を再活性化することを決意したとまず告げてから、アイルランドが「郷土芸術」によって文芸復興を成し遂げたのと同じように、自分たちは石丸梅外たちが組織した文芸同攻会に呼応して同人雑誌を創刊し、「日本の文壇に京都文学出生の第一の産声を挙げたい」と高らかに宣言して同人を募っているのだ。

 京都時代の菊池寛の動向を知るにはまさに格好のテクストであり、これを発見した片山宏行を殊勲甲としなければならないが、その解説によると、京都における菊池寛の活動がこの時期ににわかに活発化したのは三つほど理由があるという。

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source : 文藝春秋 2022年8月号

genre : エンタメ 読書 歴史