“悪友”に仕立て上げられた菊池の大学進学やいかに
鹿島氏
埋めなくてはならない空白
前回、マント事件が起こった日付は不明と書いたが、しかし、『青木の出京』をもう一度、虚心坦懐に読み返してみると、ちゃんと答えが書いてあることがわかった。
「それは、雄吉にとっては忘れられない四月の十一日の晩であった」
つまり、1913年4月11日にマント事件は起こったのである。だが、なぜフィクションの中のこの日付がマント事件のそれであると断定できるのかといえば、作家というものは大きなところでは嘘をつくが、大筋とは関係のないところ、たとえば日付などにおいては実体験をそのまま(あるいは一ひねり加えて)使うことが少なくないからだ。たとえば、ヴィクトル・ユゴーは『レ・ミゼラブル』の中でコゼットとマリユスの結婚式を1833年2月16日としているが、この日付は生涯の実質的伴侶となる愛人ジュリエット・ドルーエとユゴーが初めて結ばれた日なのである。
しかし、マント事件が4月11日だとすると、逆にいろいろと埋めなくてはならない空白が生じてくる。
菊池寛が一高を退学するという噂が寮生の間に広まるのは関口安義『評伝 成瀬正一』(日本エディタースクール出版部)によると4月16日以後である。
「『成瀬日記』には、この年四月十六日に、『菊池は退学するかも知れないと言つて私共を驚かした』とあるのがこの事件に関する記事の最初であり、以後毎日のように出てくる」
とすると、退学を決意した4月12日の早朝から4日の間、菊池寛はどこで何をしていたのかという疑問が生じるのだ。
というのも菊池寛は親しかった成瀬正一や久米正雄に行き場所も伝えず姿を消したからである。もっとも成瀬は前回にも少し触れたように、2年時後半の寮替えで、まず南寮4番から中寮3番に移り、3年時の寮替えでさらに北寮4番に移っていたから、11日の夜に菊池には会っていないのだ。じつは、この成瀬の2度の移動が後に第三次「新思潮」、第四次「新思潮」を生むきっかけになるのだが、それについては後の機会に譲り、とりあえず、空白の4日間について考えてみよう。
菊池寛
菊池に大学入学を勧める佐野
『評伝 成瀬正一』に引用されている「成瀬日記」の続きには「四月十七日 菊池はもう退校願を出してしまつた由だ」とある。菊池寛の退校願は16日か17日には提出されていたものとみられるが、決意から退校届け提出までの空白の4日間に菊池寛は何をしていたのだろうか? 答えは『青木の出京』にありそうだ。
『青木の出京』には青木(佐野)の小切手窃盗の罪を被って世話になっている近藤家を去った広井雄吉(菊池寛)は「自分の壮健な肉体」を生かして、「その翌日からすぐ激しい労働に従事した」とある。すなわち、フィクションでは雄吉は近藤家を去っただけで一高を退学したわけではないので、卒業までの間、アルバイトの賃労働をして大学入学の学資を稼いだことになっているのだが、私のカンからいうとこの記述はまったくのフィクションではない。つまり、部分的に真実を語っている。といっても、空白の4日間に菊池寛が肉体労働に従事していたわけではない。ただ、糊口の資を得るための算段はさかんに巡らしていたらしい。
じつは、そのことを示唆しているのは、なんと一方の当事者である佐野文夫なのである。「成瀬日記」の続きの4月18日には佐野が登場している。少し長いが引用しておこう。
「菊池の退校事件に関して石原(注、石原登。無試験入学組。二年から佐野や菊池と同じ部屋)と佐野が何か一生懸命に奔走してる。今の所事情はこの二人の外誰にも知られていない。(中略)
私の所へ佐野が来て、私を呼んで一寸来て呉れと云ふので分館の側へゆくと、彼は菊池の事を云ひ始めた。彼の話によると菊池はある事をして実は退校を命ぜられるのだが、彼の生涯に傷がつくと云ふので、自分の方から退校を出願せよと谷山さん(注、舎監の谷山初七郎)が言つたので、彼はすぐに寮を出て小さな室を借りた。佐野や石原は、菊池の事はまだ誰にも知れて居らぬ故、もみけそうと思つて、谷山さんや校長や菊池さん(注、教頭の菊池壽人)の所へ奔走したが、どうしても駄目なので菊池は失望してゐる。而して彼は自分の家へその事を知らしたくない、と云つてる。今は何か職業を求め様としてる。然しまだあてがない。佐野は菊池に九月の高等学校検定試験を受けさせて大学の本科へ入れる様にし様と思つてゐる由だ。そうすると家へも知れずに大学へ入れる、とこれ丈云つた。
聞いてる中に私は悲しくて仕方がなかつた。愈々あの菊池も学校へ来られなくなつたのか、と涙がこぼれ相であつた。
佐野の様な親切な友を持つた彼は何と幸福だらう。彼は菊池が国から来た為替を抱へて泣いてゐると言つた。昨夜は泣き明かした由だ」
まったくひどい話である。佐野は菊池寛が愛情からマント事件の罪を被ってくれたのをいいことに、知らぬ顔の半兵衛を決め込み、災難にあった親友のために奔走する友という役割を演じていたのである。
「善意の第三者」佐野の画策
とはいえ、こうした倫理的な非難はわれわれの当面の目標ではないので、空白の4日間に焦点を絞り、佐野が成瀬に語ったという話の裏を取るため、『青木の出京』と照らし合わせて、わかったことを列挙してみよう。
(1)菊池寛は、舎監に命じられた通り退校届けを出すとただちに寮も出て、小さな下宿に引き移り、就職活動を始めたが、さしあたり当てはない。
(2)佐野は、同室の石原を誘って(当然、真実は打ち明けずに)、菊池寛救済のために舎監や校長、教頭などに働きかけようとしていた。あるいはそのふりをしていた。
(3)佐野は、菊池寛が一高を自主退学しても、9月に高等学校検定を受験し、合格すれば、東京帝大文科大学本科へ進学できるというバイパスの方法があると知っていたので、この線で菊池が復活できるよう画策している。
空白の4日間を埋めるのに重要な情報は(1)である。というのも、寮生たちの証言を総合すると、菊池寛は事件のあと学校に急に姿を見せなくなったとあるからだ。退学と同時に退寮して民間下宿に移ったと思われるが、これには少し疑問も生じる。寮で1番貧乏な菊池寛に下宿に移るだけの費用があったのかという疑問である。考えられる仮説は、菊池寛は、佐野が借りているがほとんど使っていなかった下宿(杉森久英『小説菊池寛』によれば、佐野は最初は上野池之端の下谷7軒町、ついで小石川指ヶ谷町に下宿していたという。菊池が借りたのは後者の下宿だろう)に転がりこんで、寝泊まりしていたというものである。当時の寮生で経済的に余裕のある者は、3年になると下宿を借りていることが多かったが、佐野もそうした1人だった。ただし、佐野は下宿をほとんど利用せず、授業のあるときには寮にいたから、下宿は空いていたのである。佐野は菊池寛が退学の意志を示すと自分の小石川指ヶ谷町の下宿を使うよう勧め、菊池寛もそれに従ったのではないか? 勘ぐった見方をすると、佐野はもし菊池寛がそのまま寮にとどまっていたとすると、真相が暴露される恐れがあると感じたのではないか? つまり、真相暴露の可能性を封じるために、下宿を提供して菊池寛が寮や学校に現れないようにしたということである。そして、その間に「善意の第三者」を装って菊池寛救済活動を始めたのだろう。
ちなみに、この推測は、菊池寛の書簡を調査した片山宏行が「寮生の資格を失った菊池は、学校近くの小石川区指ケ谷町に小さな部屋を借りる」(『菊池寛の航跡 初期文学精神の展開』和泉書院)としていることと符合している。
これは、また佐野が、寮や校内で友人から菊池の居場所を尋ねられても教えなかったということからも事実と当たりがつく。
運命を分かつ第一高等学校
「俺は、佐野のために犠牲になった」
関口安義は『評伝 長崎太郎』(日本エディタースクール出版部)で一高無試験入学組首席で、菊池と寮で一緒になったこともある長崎太郎が後年したためた「菊池君の退学」(警察大学校学友会誌『致遠』第9号 1952年6月)という資料を発掘したが、関口はその資料をもとにこう記している。
「[長崎は]菊池寛の姿が、教室から消えたのが不思議だった。初めは病気かと思っていたが、いつになっても姿を現さないので、一高の物理教室の前で佐野に出くわした時、その消息を尋ねた。
長崎の『菊池君の退学』には、その時佐野が沈痛な面持ちで、『菊池は破廉恥なことをしたので、とうとう退学になった』と言い、移転先の下宿の住所も教えなかったとある」
この出会いがあったのは1913年4月23日。事件が起こってから12日後のことである。やはり、われわれの推測通り、佐野は菊池寛隠しを行っていたのだ。
だから、事態がそのまま推移していたら、菊池寛は級友たちの前から永遠に姿を消し、佐野は何食わぬ顔をして大学に進学してエリートとなっていたことだろう。
だが、実際には、このあと、事態は思わぬ展開を見せる。長崎太郎の「菊池君の退学」には、こう書かれている。
「すると、ある夜、上富坂の寄宿舎(注、日独学館)に私を訪ねて来た者があった。菊池君であった。玄関に出て見ると、同君は沈痛な顔をして、相変わらずの汚い服装をしたまゝ立っていた」(『評伝 長崎太郎』に引用)
長崎太郎が自室に来るように促す前に、菊池寛は外に出て話したいといった。神社か寺の境内まで来ると、菊池寛は長崎に誰にも話さないよう誓言してくれと頼んだ。長崎が応じると、菊池寛は真相を語り始めた。
「俺は、人間のうちで誰か一人に、この真実を知っておいて貰いたいと思う、その一人に君を選んだ。すべての人が俺を泥棒と呼んでも、俺が泥棒でなかったことを君一人には知っておいて貰いたいのだ。俺が佐野を愛していることは、君の知っている通りだ。俺の顔を見て、人は泥棒だと思うかも知れないが、佐野を見ては、泥棒と思う者はあるまい。俺の学資は到底続かぬ。佐野は秀才だ。俺は、佐野のために犠牲になった。その事実を君に話しておく」(同書)
長崎が、「佐野は、君を破廉恥漢と言ったよ」というと、菊池寛は黙して答えなかった。長崎は寄宿舎に戻っても、その夜は眠れなかったと書いている。
告白の真相は
だが、それにしても、菊池寛はなにゆえに、告白の相手として長崎太郎を選んだのだろうか? 長崎は一年のときから寮は違えども菊池寛や佐野と親しく、一緒に飲み食いしたり、旅行に出掛けて、2年時からは半年ほど菊池や佐野や成瀬と同じ南寮4番の部屋にいたこともあったから親しい間柄ではあったが無二の親友というのではなかったからだ。
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source : 文藝春秋 2022年7月号