「この国のかたち」を作った8つのツボ
歴史というと、年号や人名の暗記ばかりをさせられて嫌気がさしたという方が多いかもしれません。でも、先人が歩んできた道のりを大きな流れで掴むことは、私たちが生きる現在を知り、未来を探るためにも非常に重要です。そこで今回は私たち日本人はどのような歴史を歩んできたのかを古代、中世、近世・近代の3つのパートに分けて、お話ししたいと思います。
日本は傭兵国家だった
紀元前1世紀ごろから古代日本の話を始めましょう。中国(漢)の歴史書によれば、そのころ日本は「倭(わ)」と呼ばれ、100以上の小さな国に分かれていました。そのなかには中国に定期的に貢物を贈る国もありました。中国といっても朝鮮半島にある出先の楽浪郡に出向くわけですが、贈り物をして、ご機嫌取りをするなんていうシャレたことができた国は、北九州(九州北部)にあったと考えられています。北九州は日本で最も進んだ地域だったからです。
水田稲作、青銅器、鉄器などに代表される文明が、日本においては、なぜ北九州で興ったのか。それが日本の古代史の第一のポイントです。その理由を簡単に述べれば、朝鮮半島の南部に鉄があったからです。日本は鉄が伝来するまでは、木と石器で田畑を耕していましたが、北九州は日本のなかでは朝鮮半島に最も近いので、そこから鉄や先進文化を輸入し、鉄製の農機具で農作業ができるようになりました。そのおかげで生産性が飛躍的に上がり、北九州から文明が発達したと考えられています。
私が長年、世界史のことをたくさんの本や旅から学んできて、わかったことの一つは、歴史を見るポイントは「交易」にあるということです。動物と人間の違いはここにあります。動物は自らの生態系にあるものしか食べられないし、使えません。でも、人間は交易を行い、他の生態系から、自分の生態系にないものを持ってくることによって、自分がいる環境を自分が快適に暮らせるように変えていけます。そのようにして築かれ、洗練されていったのが「文明」と言えるでしょう。
交易を理解する上で最も重要なポイントは、「決済」です。当時の日本が鉄をもらった代わりに何を差し出していたのか、わかりますか? それは人です。おそらく傭兵です。紀元前1世紀から6世紀まで、それは変わりませんでした。
日本では紀元前1世紀には100以上の小国が争っていましたが、3世紀には巨大な前方後円墳が造れるほどの強大な権力を持った、いくつかの国にまとまっていきました。その一つが卑弥呼の邪馬台国だと考えられます。所在は北九州説と畿内説があります。その後、今の奈良県に拠点を置くヤマト政権が6世紀にかけて、日本全体を統合していきました。
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source : 文藝春秋 2018年06月号