著名人が母親との思い出を回顧します。今回の語り手は、安藤和津さん(エッセイスト・コメンテーター)です。
私の生い立ちは複雑だ。未婚で私を産んだ母は、自力で人生を切り拓いた女丈夫である。華奢で楚々とした美女は、苦労を乗り越える度に体重も増え、身も心も逞しくなっていった。20代で奉加帳3冊を手に銀行から融資を受け、柳橋で160坪の料亭を始めた母は、住み込みの板場、仲居、玄関番、帳場など20人近い従業員を抱える女将となった。料亭のはす向かいの自宅には、重いリウマチで寝たきりの実母、脊椎カリエスで障がいを持つ妹、まだ学生の弟3人と私を抱え、母は朝から晩まで目まぐるしく働いていた。幼い私は母のぬくもりが恋しくて、夜になると大広間の襖をそっと開けては母の姿を探すのが日課だった。5歳の時、料亭の内玄関で遊んでいた私は、運転を誤って突っ込んできた軽トラックの下敷きになった。母は私を抱えて全力で病院へ走った。一瞬意識を取り戻した私が見たのは、口を真一文字に結び涙を浮かべた母の顔だった。私を父から授かった宝物だと公言してはばからなかった母は、その分監視と管理を徹底した。ボーイフレンド、留学先、結婚相手まで全て決定権は母にあった。当然私は猛反発。しかし、いつも暑苦しい程の愛情に惨敗した。
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source : 文藝春秋 2022年10月号