日本人に知られていないロシアの実態/『ロシア点描』小泉悠

ベストセラーで読む日本の近現代史 第110回

佐藤 優 作家・元外務省主任分析官
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 ロシア軍事の専門家である小泉悠氏(東京大学先端科学技術研究センター専任講師)は、ウクライナ戦争に関して、日本の世論に大きな影響を与えている。本書は小泉氏による体験的ロシア論だ。小泉氏は腹を括って本書を書いている。

〈本書のような形で私がロシアについてお話をする、ということは、もう当分ないだろうと思います。/なにしろ私が最後にロシアの地を踏んだのは二〇一九年の十一月。それからコロナ禍でロシアとの往来が難しくなり、そうこうするうちにウクライナで戦争が始まってしまいました。/私はロシア軍事を研究しているので、権威主義的傾向を強めるロシアにはもう危なくて入れません〉

 東京のロシア大使館とSVR(対外諜報庁)支局は小泉氏の著書、論考には目を通している。「権威主義的傾向を強めるロシアにはもう危なくて入れません」というようなことを書くと、ロシア人のアンテナが震える。そして、「この人物はロシアにとってどのような危ないことをしているのか」と考える。腹を括って書いた本だけに、日本人にはあまり知られていないロシアの実態が記されており、興味深い。

 プーチン大統領による独裁体制のロシアでは、徴兵忌避などできないというのが日本での一般的印象と思うが、実態は異なる。小泉氏は徴兵忌避の具体的手法をこう記す。

〈徴兵逃れの最も一般的な手段は、医者に賄賂を払って偽の診断書を書いてもらうことです。つまり「この者はこれこれの疾患があるので軍務に耐えない」などと診断してもらうのです。大体給料一カ月分くらいが偽診断書の相場だったそうで、決して出せない金額でもないですから、一時期は中産階級以上の家庭からはほとんど徴兵に行く人がいないという状況でした。あるとき、国防大臣が、「我が国の若者は、徴兵年齢になると、どういうわけか具合が悪くなってしまうようだ」と皮肉ったことがあるほどです〉

 評者がモスクワ国立大学に外務省研修生として留学していた1987~88年はアフガニスタン戦争中だった。大学生は兵役猶予となっていたが、反体制運動に関与した学生については選択的に召集された。もっとも反体制運動活動家のネットワークには精神科医がいる。兵役を逃れるために精神科医に「この者は潜在的統合失調症の疑いがある。軍務に就くと銃を乱射する危険がある」というような診断書を書いてもらっていた。謝礼はウオトカ2本か外国たばこ1カートンだった。当時はルーブル貨幣に価値がほとんどなかったので賄賂はモノだった。

「電気代永久無料」の仕組み

 電気料金逃れもロシア庶民の国家観を知る上で興味深い。小泉氏はこう記す。

〈北方領土とか北極圏だと公務員は水道光熱費無料、という特典がついたりしますが、普通は日本でもよく見るような電気メーターが付いていて、使用量に応じて電気代が取られます……ということになっているのですが、私が住んでいた団地の部屋ではこの電気メーターの窓がガラス切りで綺麗に切り取られていて、使用量を記録するディスクに洗濯バサミが挟んでありました。こうしておけばディスクは動かないので、「電気代永久無料」という仕組みです。/私はなんとなく悪い気がして洗濯バサミを外したのですが、月末に家賃を取りに来た大家(ハジャイン)から「お前バカじゃないか?」と呆れられました〉

 国家は常に収奪することを考えているので、庶民が対抗措置を取るのは当然だというのがロシア人の常識だ。ちなみに筆者が知るロシアの外交官や高級官僚、大学教授や科学アカデミー幹部は「電気代永久無料」の工作をしなかった。自らが収奪する側にいるという認識を持っていたからと思う。ロシアではエリートと庶民がはっきり区分されており、そのモラルは大きく異なる。エリートを嫌っている庶民でも外国人がロシア国家やプーチン大統領を批判すると、ロシア人は「わが国や大統領を侮辱するな」と反撃してくる。ロシア人にとって大統領は国家と国民を人格的に象徴する人物だ。だからプーチン大統領に対する非難をロシア人は自らに対する人格的侮辱と受け止める。もっともロシア人の間では、ひどい言葉を用いてプーチン氏をなじることがある。父親の悪口をいつも言っている家族でも、よその人から「あんたのおやじは最低だ」と言われれば腹が立つのと似ている。こういう国家指導者に対する二面的意識をロシア人は持っている。

 ウオトカに関する小泉氏の話も面白い。

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source : 文藝春秋 2022年11月号

genre : ニュース 国際 ロシア 読書