今の日本政治が「いき」でないのはなぜか/『「いき」の構造』九鬼周造

ベストセラーで読む日本の近現代史 第71回

佐藤 優 作家・元外務省主任分析官
エンタメ 読書

 京都帝国大学教授として日本にハイデガーの実存主義哲学を導入した1人である九鬼周造(1888~1941)は、言葉遣いの実に巧みな知識人だ。東京帝大文学部で哲学を学んだ後、1921~28年までドイツとフランスに留学し、リッケルト、ベルグソン、ハイデガーなどと交遊し、強い影響を受ける。ハイデガーは九鬼の才能を高く評価した。

 今回、この連載で、『「いき」の構造』(初版1930年)を扱う目的は、最近、日本の政治家の言語が、下品で野暮、すなわち「いき」の対極にあるからだ。北方領土の国後島で、酩酊し、「おっぱい」と叫び、戦争による領土問題の解決を主張したが、マスメディアや国会で追及されると雲隠れしてしまう国会議員の言動は「いき」ではない。95歳まで生きる場合の老後資金について、年金だけでは2000万円程度の不足が生じるという金融庁の文書について、世論の反発が強まると「受け取らない」という姿勢をとる財務大臣は極めて下品だ。こういう姿勢も「いき」でない。また、この問題で安倍総理は国民に謝罪しろと騒いでいる野党政治家も、民主党政権時代に自ら主導して社会保障と税の一体改革によってこの年金制度を作ったことについては口を閉ざしている。こういう政治的攻撃は「いき」ではなく、下品で野暮だ。下品で野暮な言葉遣いの氾濫によって国民の政治離れが加速しているのだと思う。政治を健全化するためには、政治から下品で野暮な言葉を必要最低限までに減らす必要がある。

 九鬼は、まず「言葉」を考察する。

〈一般に言語というものは民族といかなる関係を有するものか。言語の内容たる意味と民族存在とはいかなる関係に立つか。意味の妥当問題は意味の存在問題を無用になし得るものではない。否(いな)、往々、存在問題の方が原本的である。我々はまず与えられた具体から出発しなければならない。我々に直接に与えられているものは「我々」である。また我々の綜合と考えられる「民族」である。そうして民族の存在様態は、その民族にとって核心的のものである場合に、一定の「意味」として現われてくる。また、その一定の意味は「言語」によって通路を開く。それ故に一の意味または言語は、一民族の過去および現在の存在様態の自己表明、歴史を有する特殊の文化の自己開示にほかならない。したがって、意味および言語と民族の意識的存在との関係は、前者が集合して後者を形成するのではなくて、民族の生きた存在が意味および言語を創造するのである。両者の関係は、部分が全体に先立つ機械的構成関係ではなくて、全体が部分を規定する有機的構成関係を示している。それ故に、一民族の有する或る具体的意味または言語は、その民族の存在の表明として、民族の体験の特殊な色合(いろあい)を帯びていないはずはない〉

西洋語にはない

 九鬼にとって民族とは文化共同体である。ドイツ語、フランス語で「いき」に相当する言葉を探す試みについて詳しく説明した後で、九鬼は〈要するに「いき」は欧州語としては単に類似の語を有するのみで全然同価値の語は見出しえない。したがって「いき」とは東洋文化の、否、大和(やまと)民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明の1つであると考えて差支(さしつかえ)ない〉と結論付ける。「いき」という言葉は、日本の文化的文脈でのみ理解可能ということだ。裏返して言うと、この言葉の意味を解説することで少なくとも日本人の文化的特徴の一部を示すことができるということだ。

「いき」が内包する意味には3つの特徴があると九鬼は考える。

〈まず内包的見地にあって、「いき」の第一の徴表は異性に対する「媚態」である。異性との関係が「いき」の原本的存在を形成していることは、「いきごと」が「いろごと」を意味するのでもわかる。「いきな話」といえば、異性との交渉に関する話を意味している。なお「いきな話」とか「いきな事」とかいううちには、その異性との交渉が尋常の交渉でないことを含んでいる〉

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source : 文藝春秋 2019年8月号

genre : エンタメ 読書