あめ、ときどき

ハコウマに乗って 第28回

西川 美和 映画監督
ライフ スポーツ

 黒澤明監督の『素晴らしき日曜日』を観直した。昭和二十二年。まだ監督五年目の作品で、戦後の貧しい恋人同士の休日を描いた物語だが、あの『七人の侍』と同じ人? と疑ってしまうほどゆるくておぼこい一作である。しかしそんな中でも、後に「黒澤天皇」と呼ばれてゆく片鱗を感じる雨のシーンがあった。

 上野動物園でのデートの後、降り始めた雨の下で二人は行き場を失う。戦時の召集で夢を絶たれた男は終始陰鬱だ。金もないし、同居人も留守だから下宿に来いよ、来ないんなら俺は帰るよ、と今で言うならデートDVむきだしの誘いに戸惑う女は、苦しまぎれに目の前に貼られた『未完成交響曲』演奏会のポスターを指差して微笑む。公会堂で一席十円(今の千円弱か)で聴けるというのだ。男の舌打ちが聴こえそうだが、ここからの展開を成瀬巳喜男のように男女のウジ虫的内面に向かわせず、アクションに転化するのが黒澤明だ。雨の中、手を繋いだ二人は西郷さん下の階段を駆け下りて、傘をさす人の間を縫うようにガード下を抜け、上野駅の広小路口まで一気に走る。窓に雨粒が伝う山手線に乗り、今度は有楽町を走り、晴海通りを横切り、さらに走って、走って、日比谷公会堂の階段を登りきる。みずみずしい!

 希望の見えない二人を生き返ったように走らせるのは「雨」だ。つまり雨は偶然ではなく、映画のための仕掛けである。しかし散水して人工的に降らせるには、繁華街のロングショットは広範囲すぎる。きっと本物の雨だろう。その雨が、カットをまたいでも見事につながっている。上野、有楽町、日比谷と駆け抜ける二人にカメラはついて移動する。移動ショットを撮影する時は、カメラをセットする時間や人物の動きのテストが必要で、そうこうする内に雨足は変わってしまうのが普通だ。長期の天気予報や雨雲レーダーもスマホでチェックできなかった当時、どんな情報を頼りにスケジュールを組み、何日待ちぼうけを食えばこんな画が撮れたんだろう。クロサワ、怖い。

 かくいう私は「雨女」と言われてきた。

 肝心な日の撮影には、必ず雨が降る。といっても『素晴らしき日曜日』とは逆で、青い空や日の光が欲しい日に、そぼ降る。しぐれる。荒れる。一日、二日ならまだしも、三日、四日と重なると、雨粒の滴る軒先で座り込んだスタッフは吐き出すタバコの煙と引き換えに言葉少なになっていく。明日晴れたとしても、何日分を巻き返さねばならないのか――。「この監督は、持ってない」そんな空気が蔓延し始めるのだ。

 若い頃は本気で悩んでいた。その通り、私には映画監督が持っていなければならない「ツキ」がないんだ。三、四年温めてきた構想が、たった一日の天気で台無しになる。はらわたに錐を刺されて血を抜かれていく感覚だった。けれど思えば修学旅行も林間学校も登山合宿もマラソン大会も、ぜんぶ土砂降りだったっけ。呪われている。映画は、光と影の芸術だ。必要な場所に必要な光の差さない映画に、人の目を喜ばすことはできない。

 スタッフの溜まりから離れた場所で下を向いている私が哀れに見えたのか、私よりも年かさの助監督さんが「雨男」なのだという言説を誰かが吹聴し、あいつの組んだスケジュールだからだ、という誹りを身代わりに受けてくれるようになった。嘘から出たまことか、気の毒にその助監督さんが関わる現場は、よそでも大嵐が起きるようになったらしい。

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source : 文藝春秋 2023年6月号

genre : ライフ スポーツ