何が驚いたって、大谷選手は一日に十二時間寝るらしい。子供時代の話ではなく、今も。大の大人が十二時間睡眠……ふつう、色々ムリ。でもあらゆる「ふつう」と「ムリ」をゆったりと払い除けながら未踏の地へ歩いていくのが大谷選手という人だった。ひょっとして彼は、あらゆる自信と立場を失ったこの国が最後の力を振り絞って産み落としたゴジラ、いやウルトラマンではないかと思えてくる。やがて沈む船に乗った私達にもうしばらく夢を見せたら、あのやさしげな微笑みを浮かべつつ、遠い星へ還っていくのではないか――いや、そうではないと思いたい。健全な環境と質の良い睡眠さえあれば、大谷翔平はまた育つのだと。
私の働く映画界は、一日の労働時間を「原則十三時間以内とする」というガイドラインを作り、この春から製作される(主に大手映画会社の)作品の現場環境の適正化を図ると発表した。
「適正化して十三時間」? 一般の基準からは、首を傾げられると思う。
映画は深夜・早朝にしか撮影できない場面も多く、世界共通で不規則な職場だが、欧米や韓国では労働時間や休日が厳しく定められ、働く人の人間的な生活は保証されている。かたや日本の映画業界は、六~七割の人材がフリーランスで労働組合もなく、就労環境は無法地帯化してきた。スタッフと契約書もろくに交わさず、休みも定めず、朝から晩まで(ひどいときには朝から朝まで)彼らを寝ずに働かせながら乗り切ってきたわけだ。
あまり知られていないが、日本映画の収益の大半は劇場と配給会社とに分配され、製作費は滅多に回収に至らず、現場で汗をかいたスタッフや俳優や監督には還元されない契約になっている。だから出資者は一円でも少ない予算で映画を撮らせようとするし、働き手は安くてきつい仕事でも請け負わずにいられない。商売というものは儲からないなら店をたたむべきで、バカじゃないのと思われるかもしれないが、確かにこの業界の人は半分「バカ」なのだ。私のような監督やプロデューサーには「それでも作りたい」という性があり、スタッフにも「映画をやりたい」という性がある。このバカさ加減を「夢」や「やりがい」と呼ぶ傾向にもあり、本人も周囲も夢のある仕事をしている錯覚を抱きながら、実際は家庭も持てなければ親の死に目にも会えず、睡眠不足でドロドロになって働いた挙句、行き着いたのは人材不足と若い人の離職だった。賢い彼らはもう振り向かない。映画もドラマも、まっぴらごめんだと。
ことのヤバさに気がついた経産省が「このままでは労基に刺されますよ」と圧力をかけた結果、東宝・松竹・東映・角川四社からなる日本映画製作者連盟が重たい腰を上げ、独立プロダクションの協会と、監督や技術者の連合と手を組んで(いや、大喧嘩しながら)、何とか環境改善や契約の正常化に向けた指針を出したのだ。
海外では八時間労働の規定が浸透しているのに、「十三時間」という労働時間の規定に留まったのは、「そんな生産性じゃ映画なんて作れなくなる」と恐れる意見も多いからだ。就労時間を短くすれば、その分撮影日数は延び、機材費も人件費も膨らむ。すると「ヒットの見込めない作品には投資できない」と出資者の財布の紐はますます固くなり、作家性の強い作品や地味なテーマの企画は通らなくなるだろう。けれどこの国は、実はどこの国より豊富な種類の映画を作り、買い付け、観客にも提供してきた。『E.T.』もいいけど、同年公開のトリュフォーの『隣の女』もすてきだ。『南極物語』もすごいけど、『家族ゲーム』は一生もののショックを受ける。利益追求とリスクヘッジに傾けば、そのような「多様性」が失われかねない、ということ。だから働き手には今後も多少の犠牲は払ってもらうしかない、というのが各社の結論だろう。
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