ケンブリッジ大学には、学生や卒業生の編集する、新入生のためのガイド本があった。そこにオックスフォード大学との比較と称し、ケ大の優位を主張する記事があった。「オ大の人間は『世界は俺のもの』という顔で歩く」「ケ大の人間は『世界が誰のものでも構わない』という顔で歩く」。首相を二十数名輩出したオ大より自然科学でノーベル賞を四十名以上輩出したケ大が上ということだ。「オ大では日本の皇太子が学び、ケ大では英国の皇太子が学ぶ」。これはいささか不愉快だったので若い数学科講師に「英国王室は九百年、皇室は万世一系の二千年だが文句あるか」と言ったら、古いものほど偉い国だけにいたく感心した。
帰国を控えた一九八八年秋、ロンドンのニューススタンドの大衆紙一面に特大の見出しが躍っていた。「ヒロヒトよ、地獄がお前を待っている」。昭和天皇の容態悪化は現地のテレビや新聞も伝えていた。外国にいるせいもあるのだろう、私は父親が危篤というような気分でいたが、この見出しには、渋く気品溢れる英国紳士に変身していた私も逆上した。ニューススタンドを根こそぎひっくり返したい気持にかられた。英国はマレー半島やビルマで日本軍に木端微塵にされ、計十数万人の捕虜を出した。そして何より、長期間にわたり英国経済を支えたインドなど、アジアの植民地すべてを失った。オランダとフランスも日本軍に惨敗し、インドネシアとインドシナ半島を失った。英国の歴史学者トインビーは一九五六年、英紙オブザーバーにこう書いた。「日本は第二次大戦において、自国でなく大東亜共栄圏の他の国々に思わぬ恩恵をもたらした。(中略)それまで二百年の長きにわたってアジア・アフリカを統治してきた西洋人は、無敵で神のような存在と信じられてきたが、実際はそうでないことを日本人は全人類の面前で証明してしまったのである。それはまさに歴史的業績であった(拙訳)」(「日本人の誇り」文春新書)。日本人は無論そんなことを目的としていなかったが、結果として西洋の植民地主義に終止符を打ったのである。植民地の喪失は西欧の経済と自尊心にとって最大級の痛手であった。これに捕虜やその家族の恨みも加わり、昭和天皇は英蘭訪問で日の丸を燃やされ、卵を投げつけられ、抗議デモにあった。
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source : 文藝春秋 2019年7月号