ヨーロッパの轍

古風堂々 第3回

藤原 正彦 作家・数学者
ニュース 社会

 三男が昨年4月、フィレンツェの教会で結婚式を挙げた。「藤原家は諏訪の浄土宗正願寺の檀家総代を代々務めてきた家だぞ」と何度も諭したが、末っ子だけに親の言うことを聞かなかった。ホテルから式場の教会に向かっていると、後ろから「あっ」という次男の低い声が、続いて女房の高い声が聞こえた。振り返ると女房が小路に向けて走り始めている。その10メートルほど先を次男が猛然と走っている。とりあえず私も二人を追うと、駿足の次男がやはり駿足のジーンズの女に追いついた。手を振りほどこうと暴れる女を次男は大外刈で投げ飛ばした。次男のバッグからケータイと財布を盗んだスリだった。三人で取り抑えながら正装の日本人の活劇を見ようと集まった人々の中から、私を熱い眼差しで見つめていた美女に「警察を呼んで下さい」と頼んだ。5分ほどで来た警察官の尋問にスリは伊語で答えられなかった。

 帰路に寄ったドイツのミュンヘンも、10年前と様変りしていた。繁華街の街路樹の下でジーンズの男女が意識不明で横たわっている。通りがかった男が「麻薬だな」とつぶやいた。身なりの崩れた中年女が、聞いたことのない言語で私に何か毒づいた。静謐だった街が喧騒のるつぼとなっていた。当地に長く住む日本人が私に、「ここ10年の移民の急増で街は一変しました。人々は余裕を失い、ギスギスして笑顔をなくしてしまいました」と肩を落とした。

 帰国した京都で、道に迷ったスウェーデン人の学生6人を哲学の道まで連れて行くことになった。「ストックホルムを訪れたことがある」と言ったら、皆が急に真面目な面持ちとなり「いつ」と聞く。「15年ほど前だが」「あーよかった。今は押し寄せた移民で何もかもすっかり変わってしまったから」。口々に言った。「北欧までとは知らなかった。高福祉だからかな」。190センチほどの男が言った。「その通り。今では失業保険受給者の過半数は移民です。1000万人の人口に対し移民はすでに250万人となり、今も毎年十数万人入っています。移民の住む地区はスラム化し頻繁に暴動が起きています。性犯罪は10年前の数倍になり、その75%は移民によるものです」。「多文化共生社会の模範と言われていたのに」。女子学生が応じた。「私達は夢を見ていました。今やネオナチから発した極右政党が総選挙で大躍進する有様です。あなたの見た平和なスウェーデンをそのまま胸にしまっておいて下さい」。

 西欧と北欧は無邪気だった。どの国も少子化による労働力不足を補うために進んで移民を受け入れたのだが、当初は「仕事が一段落したら母国に帰る」と誰もが思っていた。単身で来た移民青年が、数年後に家族や親戚をよぶことや、移民の出生率の高さなども想定していなかった。低賃金でほとんど税金を納めない人々のための健康保険や失業保険による地方自治体の財政逼迫、言葉を話せない青少年を大量に引受ける教育現場の混乱も想像しなかった。治安の悪化や国内労働者の賃金低下は予測したものの甘かった。最大の思い違いは、移民が移住先の文化や伝統、そして価値観にいずれ同化するだろうと思ったことだった。

 ごくたまに出た保守派による移民政策への批判は、政府やメディアによる「差別主義者」とか「ファシスト」の一語で叩き潰された。職を追われた人々もいる。移民による犯罪の報道は差別を助長しかねないとの配慮から自粛されるか、母国が特定できないよう糊塗された。2015年大晦日のケルンでの移民1000人による数百人のドイツ女性に対する性的暴行は、ドイツでは4日間も報道されなかった。2016年になって西欧北欧は、世論調査で圧倒的多数が移民政策を否定した。安い労働力と人道主義に浮かれているうちに、自国が瓦解していたことにやっと気付いたのである。遅すぎた。元のヨーロッパにはもう戻れないだろう。移民とは不可逆過程なのだ。

 ここ10年間、移民急増への危機感が大きな声とならなかったのは、「差別主義者」の烙印が西欧人にとって耐えられないからだ。跋扈するPCに加え、西欧には歴史的負い目があった。移民の母国とはほとんど、かつて西欧が植民地として残酷に搾取し、蔑視し、奴隷を連れ出した土地だったのだ。その上アメリカには先住民虐殺や奴隷制への負い目、ドイツにはホロコーストの負い目もある。東欧が移民を厳しく規制したのはこういった負い目がないからだ。グローバリズムのもたらした熾烈な競争は大企業だけではなく政官をも巻き込んだ。政官財が一体化したため、どの国でも政官そしてメディアまでが大企業の意向に沿うという経済至上主義となった。移民が止まらないわけだ。

 すでに世界4位の移民大国となった日本はこの4月に、専門職に限定されていたのを単純労働者にまで広げた。2025年までに技能実習生という名の移民50万人を受け入れるという。介護、土木、建築などに人手がないと言うが、過酷な労働の割に低賃金だから人が集まらないのだ。20年間も給料を上げず全雇用者の4割を非正規としたから企業の内部留保は史上最高の470兆円だ。こういった職種の給料を倍にして正規雇用とすれば、年収200万未満の非正規社員が1600万人もいていくらでも集まる。そうすれば結婚も可能となり、少子化も解決に向かう。日本の政官財メディアはヨーロッパと同じく、安い労働力の欲しい経済界に迎合し、移民受け入れ支持だ。安価でほぼ無尽蔵な移民への依存は始めたら止められない麻薬だ。我が国にもPCや歴史的負い目があり、警鐘を鳴らす人がいない。日本はヨーロッパの轍を歩み始めた。

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source : 文藝春秋 2019年8月号

genre : ニュース 社会