福沢諭吉(1835〜1901年)は、一万円札の肖像になっているくらいの国民的英雄だ。『学問のすすめ』は、福沢が明治5年2月から同9年までに断続的に刊行した17編の小冊子だ。明治13年に合本が刊行された。その序文に福沢は、〈発兌の全数、今日に至るまで凡そ七十万冊にして、そのうち初編は二十万冊に下らず。これに加うるに、前年は版権の法厳ならずして偽版の流行盛んなりしことなれば、その数もまた十数万なるべし。仮に初編の真偽版本を合して二十二万冊とすれば、これを日本の人口三千五百万に比例して、国民百六十名のうち一名は必ずこの書を読みたる者なり。〉と記している。160人のうち1人が購入しているというのは、書籍が高価だった当時では、間違いなく大ベストセラーだ。
この本の名前は現代でも有名であるが、実際に通読したことがある人はあまりいない。その大きな原因が擬古文で書かれているからだ。言葉は生き物である。時代とともに変遷する。齋藤孝氏が本書を「和文和訳」し、優れた現代語に訳している。仕事や生活に具体的に役立たせるために『学問のすすめ』を読む人のほとんどが齋藤訳を手にすると思うので、本書の引用はこの訳文を用いる。
さて、本書の冒頭、
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
という言葉は、ほとんどの日本人が知っている格言になっている。それ故に福沢が平等主義者で、『学問のすすめ』を「平等のすすめ」と勘違いしているひとが多い。福沢はエリート主義者で、上層と下層に人間を区別して考えている。人間社会に経済的な大きな格差があることも当然視している。福沢は、エリートと大衆の差異の原因が、江戸時代までのような身分ではなく、学問を身につけたか否かになるという西洋基準が日本にもやってくると警鐘を鳴らしている。平たく言い換えると、「エリートになりたいなら、学問を身につけろ」と主張しているのだ。〈この人間の世界を見渡してみると、賢い人も愚かな人もいる。貧しい人も、金持ちもいる。また、社会的地位の高い人も、低い人もいる。こうした雲泥の差と呼ぶべき違いは、どうしてできるのだろうか。/その理由は非常にはっきりしている。『実語教』という本の中に、「人は学ばなければ、智はない。智のないものは愚かな人である」と書かれている。つまり、賢い人と愚かな人との違いは、学ぶか学ばないかによってできるものなのだ。/(中略)社会的地位が高く、重要であれば、自然とその家も富み、下のものから見れば到底手の届かない存在に見える。しかし、そのもともとを見ていくと、ただその人に学問の力があるかないかによって、そうした違いができただけであり、天が生まれつき定めた違いではない。〉
福沢は、先天的な才能よりも後天的な努力を重視する。学問でも哲学や文学のような教養を身につけるよりも簿記、計算などを重視する。当然、経済学の比重が高くなる。徹底的な功利主義的姿勢で学問に取り組むことを福沢は訴える。
反面教師としての忠臣蔵
功利主義的姿勢に反する封建的な思想、文化との訣別を本書の中で繰り返し訴える。そこで反面教師として何度も取り上げられるのが忠臣蔵だ。少し長くなるが、福沢の世界観を端的に表している箇所なので、正確に引用しておく。〈主人への義理で命を捨てた者を忠臣義士というなら、今日でも世間にそういう人は多くいる。権助が主人のお使いに行って、一両の金を落として途方にくれ、主人へ申し訳が立たないと覚悟し、並木の枝にふんどしをかけて首を吊るような例は珍しくない。いまこの忠義の使用人が自ら死を決心するときの心を酌んで、その気持ちを察すれば、哀れむべきである。「使ヒニ出デテ未ダ返ラズ、身マヅ死ス。長ク英雄ヲシテ涙ヲ襟ニ満タシムベシ」と詩に詠んでもいいくらいだ。/主人の委託を受けた一両の金をなくして、君臣の分をつくすに一死をもってするのは、古今の忠臣義士に対して少しも恥じるところがない。その忠誠ぶりは、日月と共に輝き、その功名は天地と共に長くあるべきなのに、世間の人はみな薄情で、この権助を軽蔑し、碑を立ててその功業を称賛する者もなく、宮殿を建てて祭る者もいないのはなぜだろうか。/人はみな言うだろう。「権助の死はわずか一両のためであって、事の次第も非常に些細だ」と。しかし、事の軽重は金額や人数の多い少ないで論じてはならない。世の中の文明に貢献したかどうかでその重要性を決めるべきである。/いま、かの忠臣義士が一万の敵を殺して討ち死にするのも、この権助が一両の金をなくして首を吊るのも、その死で文明に貢献しないことではまさしく同様であって、どちらかを重視し、どちらかを軽視することはできない。義士も権助も共に命の捨てどころを知らない者と言ってよい。これらの行為は「マルチルドム(引用者註*殉教)」とは言えないのだ。〉
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source : 文藝春秋 2014年10月号