1954年から2005年にかけてカッパ・ブックスという名称の新書が光文社から刊行されていた。刊行当時、新書といえば、岩波新書に代表される教養分野が中心だった。それに対して、カッパ・ブックスは正面から挑んでいった。伝説上の妖怪・河童に因んだ名前をつけたのも、〈カッパは、いかなる権威にもヘコたれない。非道の圧迫にも屈しない。なんのへのカッパと、自由自在に行動する。その何ものにもとらわれぬ明朗さ。その屈託のない闊達さ。裸一貫のカッパは、いっさいの虚飾をとりさって、真実を求めてやまない。〉と「カッパ・ブックス」誕生のことばに示唆されているが、権威に対する反発だ。「カッパ・ブックス」は読書界に受け入れられ、数多くのベストセラーを出した。多湖輝『頭の体操』シリーズ/塩月弥栄子『冠婚葬祭入門-いざというとき恥をかかないために』/佐賀潜『刑法入門-臭い飯を食わないために』/石原慎太郎『スパルタ教育-強い子どもに育てる本』などは、ベストセラーであるとともに社会に大きな影響を与えた本だ。
今回取りあげるのは、加藤周一氏の『読書術』だ。その後、この本は、岩波書店の「同時代ライブラリー」に収録され、現在は「岩波現代文庫」から刊行され、読書術の基本書としての地位を占めている。加藤氏というと、当時、日本を代表する知識人で、エロ系の実用書も出す「カッパ・ブックス」から著作を出したことが意外に受け止められた。本書が出た経緯について、加藤氏は「同時代ライブラリー」版のあとがきでこう記している。〈一九六〇年の春、岸内閣の安保条約改訂に反対する大衆運動がまきおこって、東京の街は騒然としていました。その頃ある出版社(光文社)が私に、高校生へ向けて「読書術」という本を書かないか、書けば新書版の「ベストセラー」にしてみせる、といいました。私はそれまで売れない本を何冊か書いていて、そういう本を書くことにくらべれば、「ベストセラー」を作ることなどははるかに容易である、と豪語していたのですが、口先だけではなく、実際にそれができたら面白かろう、と考えました。それで私は「読書術」を口述することにし、口述筆記に手を入れて本を作り、そのために一カ月以上の時間は投じない、という方針を決め、口述の後、その年の秋にカナダへ出かけてしまいました。/(中略)口述と併せて使った時間は、たしかに一カ月以内でしたが、「ベストセラー」の話は半信半疑、というよりもなかば冗談のつもりでした。ところが意外にも、この本が「ベストセラー」になり、その後何十年も版を重ねて、普及するようになりました。光文社版の『読書術』です。/しかるに最近、岩波書店の同時代ライブラリーに『読書術』を入れてはどうか、という話が書店の側からもちあがり、あらためて読み返してみると、30年前の私の議論の大筋は今でもそのまま通用するというか、今の私が三〇年前の私に賛成できる話のように思われました。それならば、出版社が変って、新しい読者も得られるだろう、と考え、はじめに本を作った光文社が承諾してくれるという条件で、私は岩波書店の提案を受け入れました。そうして出来上ったのが、この岩波版『読書術』です。〉
ベストセラーのコツ
ここにはベストセラーを作るコツが記されている。まず、普段、難しいことばかり書いている学者や専門家の場合、本人に書かせずに、口述させて、専門的な事柄をよく理解している編集者が本にまとめることが重要だ。編集者が、著者と読者の架け橋になるのだ。それから、草稿が完成してから、確定稿になるまでの時間をかけすぎないことだ。学者や専門家など、知識人と呼ばれる人々は、時間に関するコスト感覚に欠ける場合がある。何度も原稿に手を入れている内に、訳がわからなくなってしまい、結局、加除修正がたくさん入った完成稿よりも、草稿の方がずっと良かったということになりかねないからだ。それにしても、1960年代に高校生を対象に書かれた本が、30年後には、教養を売りにする岩波書店から再刊されるようになったという現実をどう受け止めればいいのだろうか。時代の経過とともに人類の教養が拡大していくという啓蒙主義では、理解できない。
本書に記された読書の技法は、刊行から半世紀を経た現在も有効だ。例えば、速読法と時間がかかる精読法の関係についてだ。〈「本をおそく読む法」は「本をはやく読む法」と切り離すことはできません。ある種類の本をおそく読むことが、ほかの種類の本をはやく読むための条件になります。また場合によっては、たくさんの本をはやく読むことが、おそく読まなければならない本を見つけだすために役立つこともあるでしょう。(中略)/本をゆっくり読むことは大切です。第一に、そうすることで、たくさんある本のなかから読まなければならない本、読みたい本を選びだす手間がおおいにはぶかれる。『源氏物語』に手間どっていれば、その手間どっているあいだに、今月のどういう小説がおもしろいだろうかと心配する必要がなくなるといったものです。第二に、小説の場合には話がいくらか違いますけれども、一般に一冊の本をゆっくり読めば、それを読み終わったあとで、ほかの本を手あたりしだいに読みだすときに、仕事がはやく片づきます。/しかしなんといっても、いまこの世の中で、ゆっくり読むことのできる本だけをゆっくり読んで、他の本に脇目もふらず、おちつきはらっていることはむずかしいでしょう。本を読む必要があるとすれば、大部分の本は、どうしてもはやく読まなければならないということになりがちでしょう。〉
要するに、精読に値する本を限定するために速読が必要となるのだ。自分が十分に理解できていないテーマについて、頁を早めくりして、眼球のトレーニングを繰り返して、本を見ても、指と眼球の運動にはなっても、本の内容はさっぱり頭に入らない。このような速読が無駄であることが、加藤氏の『読書術』を精読するとよくわかる。
本筋ではないが、本書の新聞論も示唆に富む。加藤氏は、〈新聞の性格には三つの大事な特徴があります。その第一は、新聞は事実を選ぶということです。新聞社は、その日に起こったたくさんの出来事を集め、そのすべてを紙面に印刷することはできないので、印刷できるものの何倍もある事実のなかから少数の事実を選びだして、それを新聞にのせるのです。その場合に、なにを選びだすかということは微妙な問題で、どの新聞にも通じるはっきりした標準があるわけではありません。事実の選び方そのものに、新聞の性格の違いが現われてくるでしょう。第二に、新聞は、選びだした事実を印刷するときには「見出し」をつけます。この「見出し」のつけ方にも、すべての新聞に通じる規則も標準もない。したがって、新聞の個性がその「見出し」のつけ方に現われてくるだろうと思われます。〉と指摘する。要するに、新聞ごとに編集権があるので、客観報道の体裁をとっても、どの事実をニュースとして扱い、どのような見出しを付けて報じるかによって、異なった物語ができるのである。これに対して、加藤氏の三番目の指摘は、新聞記者と読者が自覚していない重要な点だ。〈第三に、新聞、ことに日刊新聞は、情報をすばやく提供することを任務としているために、そして紙面がかぎられているために、昨日あった出来事を忘れて、あるいは、少なくとも書かないで、今日あった出来事だけを報道します。別の言葉でいうと、新聞の紙面に関するかぎり、そこには記憶というものがありません。その意味で、日刊新聞と歴史の本とは対蹠的なものでしょう。〉
加藤周一の助言
新聞には記憶がないというのは、このマスメディアの重要な特徴だ。それだから、14年前に鈴木宗男事件に連座して、「外務省のラスプーチン」と揶揄され、徹底的に断罪された筆者の寄稿が、新聞に掲載されるような事態が生じるのだ。新聞に記憶がないことに筆者や鈴木宗男氏は裨益しているのである。
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source : 文藝春秋 2016年3月号