太平洋戦争で米国は日本と文字通り総力戦を展開した。総力には知力も含まれる。日本本土に上陸する前に沖縄戦を想定していた米海軍省は、1944年11月に『琉球列島に関する民事ハンドブック』という344頁からなる部外秘のインテリジェンス分析調書を刊行した。当時、軍政を担当する将校に命じられた米イエール大学の文化人類学者ジョージ・P・マードックを中心とする専門家によって作成されたものだ。そこでは、日本人と沖縄人の関係について、こう記されている。
〈民族的立場 日本人と琉球島民との密着した民族関係や近似している言語にもかかわらず、島民は日本人から民族的に平等だとは見なされていない。琉球人は、その粗野な振る舞いから、いわば「田舎から出てきた貧乏な親戚」として扱われ、いろいろな方法で差別されている。一方、島民は劣等感など全く感じておらず、むしろ島の伝統と中国との積年にわたる文化的つながりに誇りを持っている。よって、琉球人と日本人との関係に固有の性質は潜在的な不和の種であり、この中から政治的に利用できる要素をつくることが出来るかも知れない。島民の間で軍国主義や熱狂的な愛国主義はたとえあったとしても、わずかしか育っていない。〉(沖縄県立図書館史料編集室『沖縄県史 資料編1 民事ハンドブック 沖縄戦1(和訳編)』沖縄県教育委員会、1995年)
日本人は沖縄人を差別しているが、沖縄人は劣等感を全く感じておらず、独自の歴史と文化に誇りを持っているので、両者の差異を拡大して対日戦争における米国の立場を強化するという工作目的が鮮明になっている。現在、米海兵隊普天間飛行場の移設問題で政府と沖縄県の関係が緊張しているが、その背景には国際基準で考えた場合の民族問題に該当する構造があることが『民事ハンドブック』を読むとよくわかる。
『菊と刀』の原型となったのも米戦時情報局(OSS)の指示によって米コロンビア大学の文化人類学者ルース・ベネディクトを長とするチームが作成した『日本人の行動パターン』だ。このインテリジェンス分析調書をベネディクトらは45年5月初頭から8月初頭にかけて執筆したが、国務省に提出したのは、日本が降伏した後の45年9月15日だった。ベネディクトは、この調書を一般読者向けに加除修正し、46年11月に『菊と刀』との表題で公刊した。ベネディクトは、一度も日本を訪れたことはなく、文献資料と米国にいる日系人からの聴き取りだけで本書を書いたが、本書は日本人の内在的論理をとらえた古典としての地位を獲得し、刊行から70年を経た今日でも読まれている。日本語版は、96年時点で累計230万部が売れた大ベストセラーだ。
『菊と刀』は、長谷川松治訳で長らく読まれてきたが、本稿では角田安正氏(防衛大学校教授)の訳を用いる。言葉は生き物なので、時代とともに変化していく。実は、筆者は角田氏とモスクワの日本大使館で机を並べて仕事をした経験がある。角田氏は専門調査員として大使館に出向し、ロシア内政を担当していた。角田氏は言葉のセンスが非常によいので、正確でわかりやすく、かつ洞察力の鋭い調書を作成していた。その後、優れたロシア語力を生かしてレーニンの『国家と革命』『帝国主義論』などの新訳を作成しているが、今後、数十年の使用に耐える見事な翻訳だ。『菊と刀』にも、正確で読みやすいという角田訳の特徴があらわれている。
日本人独特の国家観
ベネディクトの『菊と刀』という表題に、本書の問題圏が端的に提示されている。〈「役者や絵師を敬う美意識、あるいは菊の栽培にあらん限りの工夫を凝らす美的感覚を一般大衆が大事にしている」と本に書きながら、わざわざ別の研究書を著して、刀をあがめ武士(もののふ)をうやうやしく扱う風習について補足する。/これらの矛盾はいずれも日本に関する書物の縦糸と横糸であって、すべて真実である。菊も刀も、同じ日本像の一部なのである。日本人は攻撃的でもあり、温和でもある。〉
菊の栽培に見られるような平和的な美意識と刀で示された流血を辞さずに自らの目的を達成する凶暴さが、1人の日本人の中で、人格分離を起こさずにどのようにして共存できているかという謎を文化人類学的知見を用いれば、論理整合的に解明できるとベネディクトは考える。
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