外山滋比古氏は、英文学、言語学、教育学などの専門分野でも大きな業績を残しているが、同時に専門分野の枠を超えた知を体得するための方法論についての第一人者である。同氏の『思考の整理学』は、1983年3月に筑摩書房から「ちくまセミナー1」として刊行された。「ちくまセミナー」は、竹内宏『現代サラリーマン作法』(同年3月)、森谷正規『文科系の技術読本』(同年4月)など、学知を実務と結びつけることを考えて編纂されたシリーズだ。『思考の整理学』は、86年にちくま文庫に収録された後もロングセラーになり、2016年2月25日付の第107刷の帯にはこう記されている。〈刊行から30年、異例の200万部到達 時代を超えたバイブル 2015年文庫ランキング(東大、京大、早大生協、全国大学生協連合会調べ)東大(2位)、京大(2位)、早大(1位)〉。本書は、今後も長い間、大学生にとってのベストセラー兼ロングセラーの地位を維持するであろう。その理由は、本書のタイトルは『思考の整理学』であるが、内容は発想法、記憶術、表現法など、知を扱う分野で仕事をする人にとって不可欠のノウハウをわかりやすく伝授しているからだ。
まず、外山氏は、知識をグライダー型と飛行機型に区分する。飛行機がエンジンによって自力で飛行することができるのに対し、グライダーは風に乗って滑空することしかできないことからのアナロジー(類比)だ。高校までは、教科書と参考書、問題集が整い、教師が手取り足取り教える教育だ。最近では、進学校の生徒は、現役時代から予備校に通ってグライダー型の知識を吸収する訓練を徹底して受ける。また、大学以降、本来は自力で飛行する能力を身に付けなくてはならない場所でもグライダー型の教育が主流を占めている。こういう教育が生み出す欠陥について、外山氏はこう述べる。〈学校の最優等生が、かならずしも社会で成功するとは限らないのも、グライダー能力にすぐれていても、本当の飛翔ができるのではない証拠になる。学校はどうしても教師の言うことをよくきくグライダーに好意をもつ。勝手な方を向いたり、ひっぱられても動こうとしないのは欠陥あり、ときめつける。/教育は学校で始まったのではない。いわゆる学校のない時代でも教育は行なわれていた。ただ、グライダー教育ではいけないのは早く気がついていたらしい。教育を受けようとする側の心構えも違った。なんとしても学問をしたいという積極性がなくては話にならない。意欲のないものまでも教えるほど世の中が教育に関心をもっていなかったからである。〉
昔の塾や道場は、志願者を受け入れても、最初は、薪割り、水汲みなどの雑用をやらせる。志願者が学びたいと思っていることのノウハウを教えてくれない。こうして、志願者の学習意欲を高めているのだ。〈あえて教え惜しみをする。/じらせておいてから、やっと教える。といって、すぐにすべてを教え込むのではない。本当のところはなかなか教えない。いかにも陰湿のようだが、結局、それが教わる側のためになる。それを経験で知っていた。/頭だけで学ぶのではない。体で覚える。しかし、ことばではなかなか教えてもらえない。名人の師匠はその道の奥義をきわめているけれども、はじめからそれを教えるようではその奥義はすぐ崩れてしまう。(中略)/秘術は秘す。いくら愛弟子にでもかくそうとする。弟子の方では教えてもらうことはあきらめて、なんとか師匠のもてるものを盗みとろうと考える。ここが昔の教育のねらいである。学ぼうとしているものに、惜気なく教えるのが決して賢明でないことを知っていたのである。〉
習うより盗め
筆者自身の体験に照らしてみた場合、モスクワの日本大使館に勤務してからのロシア語の翻訳の技法、公電(外務省が公務で用いる電報)の書き方に関する教育は、まさに「師匠のもてるものを盗みとる」というスタイルだった。これは日本に特有のことではないようだ。筆者は、モサド(イスラエル諜報特務庁)やSVR(ロシア対外諜報庁)でインテリジェンス教育を担当する専門家と何度か意見交換をし、研修施設を視察したことがある。いずれの機関もマニュアル型の勉強を1年くらいさせた後は「習うより盗め」というような環境に研修生を置いて、インテリジェンスのノウハウを身に付けさせていた。「盗む」能力に欠ける者は、インテリジェンス業務から外されていた。外山氏は、〈師匠の教えようとしないものを奪いとろうと心掛けた門人は、いつのまにか、自分で新しい知識、情報を習得する力をもつようになっている。いつしかグライダーを卒業して、飛行機人間になって免許皆伝を受ける。伝統芸能、学問がつよい因習をもちながら、なお、個性を出しうる余地があるのは、こういう伝承の方式の中に秘密があったと考えられる。/昔の人は、こうして受動的に流れやすい学習を積極的にすることに成功していた。グライダーを飛行機に転換させる知恵である。〉という。
外山氏の主張を筆者の言葉で言い換えると、教育とは、師弟という関係に入ることだ。師弟の信頼関係の中で、全人格的に恩師の知が弟子に伝えられていくのである。
外山氏が本書を上梓した1983年は、ようやくデスクトップ型のコンピューターが大学にも導入され始めた時期だ。外山氏はコンピューターに期待される機能についてこう述べる。〈いちはやくコンピューターの普及を見たアメリカで、創造性の開発がやかましく言われ出したのは偶然ではない。人間が、真に人間らしくあるためには、機械の手の出ない、あるいは、出しにくいことができるようでなくてはならない。創造性こそ、そのもっとも大きなものである。/しかし、これまで、グライダー訓練を専門にしてきた学校に、かけ声だけで、飛行機をこしらえられるようになるわけがない。はたして創造性が教えられるものかどうかすら疑問である。/ただ、これからの人間は、機械やコンピューターのできない仕事をどれくらいよくできるかによって社会的有用性に違いが出てくることははっきりしている。どういうことが機械にはできないのか。それを見極めるのには多少の時間を要する。創造性といった抽象的な概念をふりまわすだけではしかたがない。/本当の人間を育てる教育ということ自体が、創造的である。教室で教えるだけではない。赤ん坊にものごころをつけるなどというのは、最高度に創造的である。つよいスポーツの選手を育てあげるコーチも創造的でなくてはならない。芸術や学問が創造的であるのはもちろんである。セールスや商売もコンピューターではできないところが多い。〉外山氏がこの文章を発表してから33年が経ったが、同氏の洞察は正しかった。今や教育でも研究やビジネスでもコンピューターは不可欠になっている。また、コンピューター上で人間同様の知能を実現しようとするAI(人工知能)の研究も急速に進んでいるが、どれだけこの研究が進んでも、人間の創造性に独自の場所が残ることは間違いないと筆者は考えている。
必要なことはメモしない
本書には、考える力を強化するためのヒントがいくつも記されている。そのうち、筆者が最も共感したのは忘却の重要性に関するところだ。〈気にかかることがあって、本を読んでも、とかく心が行間へ脱線しがち、というようなときには、思い切って、散歩に出る。歩くのも、ブラリブラリというのはよろしくない。足早に歩く。しばらくすると、気分が変化し始める。頭をおおっていたもやのようなものがすこしずつはれて行く。/三十分もそういう歩き方をすると、いちばん近い記憶の大部分が退散してしまう。さっぱりする。そして、忘れていた、たのしいこと、大切なことがよみがえってくる。頭の整理が終了したのである。帰って、本に向えば、どんどん頭に入ってくる。〉
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source : 文藝春秋 2016年6月号