科学的業績としての資本論『経済原論』宇野弘蔵

ベストセラーで読む日本の近現代史 第35回

佐藤 優 作家・元外務省主任分析官
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 宇野弘蔵は、マルクスの『資本論』研究の第一人者である。しかし、『資本論』から革命の指針を見出そうとするイデオロギー過剰なマルクス主義経済学者ではなかった。宇野は、マルクス主義経済学とマルクス経済学を区別する。マルクス主義経済学は、共産主義革命を実現するという認識を導く関心の下で革命の指針を見出そうとするイデオロギーだ。宇野はこういうマルクス主義経済学を否定し〈『資本論』の偉大なる科学的業績を現代に生かすものではないと思っている。〉と強調する。

 ここでいう科学とは体系知(ドイツ語のWissenschaft)のことだ。宇野は、『資本論』を資本主義社会の内在的論理を実証主義的に解明した体系知の本ととらえたのだ。マルクスが『資本論』で展開した科学(体系知)の方法に、『資本論』の記述が矛盾している場合(例えば、資本主義の発展とともに労働者階級が窮乏するという窮乏化法則)、その記述を改め、純粋な資本主義の運動を記述した「原理論」に再編する必要があると考えた。そして自ら『経済原論』を二度上梓し、「原理論」の分野で多くの業績を残した。『経済原論』をはじめとする宇野弘蔵の著作から、筆者は強い影響を受け、現在も思考の鋳型になっている。筆者は、マルクス主義の科学的無神論を学ぼうと考えて、同志社大学神学部に入学した。当時、キリスト教の洗礼を受けておらず、牧師や神父の推薦状を持たずに受験できた神学部は同志社だけだった。神学部に入って水が合わなければ、すぐに退学して、首都圏の大学の経済学部か文学部に入り直してマルクス主義を勉強しようと思っていた。予想に反して、神学部は、筆者の知的刺激を満たすのに最良の環境だった。神学の勉強を半年ほどしたところで、マルクスが批判している神は、まさに人間が作り出した偶像で、ディートリヒ・ボンヘッファーなどの優れたプロテスタント神学者は、マルクス主義者よりもずっとラジカル(根源的)な宗教批判を展開していることを知った。79年12月のクリスマス礼拝のとき、19歳の筆者はキリスト教の洗礼を受けた。その後、キリスト教信仰がゆらいだことは、文字通り、一度もない。ボンヘッファーらとともに、マルクス主義を抜け出すための理論武装をしてくれたのが『経済原論』だ。筆者は、1回生の夏休みに岩波全書版の『経済原論』を買って読んだ。それから数十回はこの本を読み返している。

 

 宇野は、マルクスには、二つの魂があると考える。一つ目は、観察者として、資本主義の内在的論理を解明しようとする魂だ。それは、マルクスの主著『資本論』に端的に現れている。ただし、マルクスには、共産主義社会を実現しようとする二つ目の魂もある。『資本論』にも革命家としてのマルクスのイデオロギーが混在するが故に、論理が崩れている部分がある。そのような部分については、論理を重視して宇野は『資本論』を原理論として純化した。宇野によれば、経済学の原理とは、〈資本家的商品経済が、あたかも永久的に繰り返すかの如くにして展開する諸法則を明らかにする〉ことなのである。

労働力の商品化

 ここで鍵になる出来事が労働力の商品化だ。労働力の商品化が生産様式を支配するようになると、資本主義は、好況と恐慌を繰り返し、「あたかも永久的に繰り返すかの如」きシステムとなるのである。『経済原論』の結論部で宇野は、〈社会主義の必然性は、社会主義運動の実践自身にあるのであって、資本主義社会の運動法則を解明する経済学が直接に規定しうることではない。〉と強調するが、この内容に納得した後、筆者は『資本論』の論理に立ちながら、キリスト教徒であることに矛盾を感じなくなった。資本主義社会の構造は、宇野流に『資本論』を読み解くことによって客観的に解明できる。ただし、そのことから資本主義体制を打倒する革命運動に加わらなくてはならないという結論が導き出されるわけではない。もちろん、「こんな社会で生きるのは嫌だ」と革命を志向する人もいるだろう。他方、「利潤を生み出す源泉は労働力しかないのだから、人材派遣会社を経営して、他人の労働力を徹底的に搾取して金持ちになる」という処方箋を『資本論』から見出すことも可能になる。あるいは、予見される将来に資本主義システムが崩れることはないのだから、資本主義が暴走するのを避けるようにしつつ、いつか資本主義に代わる社会が到来する日を「急ぎつつ、待つ」という選択をする人たちもいる。

 さて、現実に存在する資本主義は純粋なものではない。

宇野経済学は知的武器

 宇野は資本主義の純粋化傾向は、19世紀末には止まり、国家が経済に積極的に介入する帝国主義の時  展とともに経済政策が重商主義、自由主義、帝国主義と質的に異なる位相で発展するという段階論を唱えた。さらに現実に存在する資本主義を分析するには、原理論、段階論の考察に、政治勢力や労働運動の状況、国際関係などを加味した現状分析を行わなくてはならないと考えた。原理論・段階論・現状分析という三段階論で重層的に資本主義を分析する体系知としての経済学を確立する必要があると宇野は説いた。段階論については、国家の経済に対する政策で当該資本主義の特徴が顕著に示されるので、国家論と言い換えてもいいと思う。

 外交官になり、インテリジェンス(特殊情報)業務に従事するようになった後も、宇野経済学は重要な知的武器だった。ソ連崩壊後、ロシアで展開された市場経済化は、『資本論』に書かれた資本の原始的集積過程があたかも再現されたような状態だった。当時のロシアを宇野原理論で想定されたところの純粋な資本主義という視座から見ると情勢を的確に分析、評価することができた。エリツィン政権初期のブレインでソ連崩壊のシナリオを描いたゲンナジー・ブルブリス(元国務長官)に宇野経済学について説明したら、メモにすることを求められた。その後、ブルブリスは新自由主義に批判的になるが、そこには筆者のロシア語メモの影響も少しあったと思っている。

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source : 文藝春秋 2016年8月号

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