「やあマリア。元気かね?」
1990年代、パリの左岸にあった私の自宅に、文豪ウンベルト・エーコが巨体を揺らしながら入ってくると、マリア・コダマ゠ボルヘスの差し出したほっそりした手の甲に恭しくキスをした。
「久しぶりね。ウンベルト」
先刻まで私と一緒にキッチンで食器を拭いていたマリアがいつの間にかエレガントな上着を羽織り、19世紀の貴婦人然として彼を迎えた。
当時エーコはフランスの教育機関の最高峰、コレージュ・ドゥ・フランスで講義をするため頻繁にパリにきていた。同じく文学界の巨匠で、アルゼンチン出身の作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの妻、マリアはブエノスアイレスから渡仏すると、私が住んでいた家に泊まった。パリではエーコと私は隣人だったので、私たち3人はよくサンジェルマン・デ・プレのカフェ「フロール」の2階や右岸の日本料理店「衣川」へ出かけた。
東京でフランス文学の翻訳をしていた私は、1985年に渡仏、出版社の「マガジンハウス」に依頼され、同社のパリ支局を任されていた。
1986年にボルヘスが亡くなったあと、私が連載していた雑誌「ブルータス」の記事のため、妻のマリアにインタヴューすることになった。没後まだ1年も経っておらず、マリアはどことなく痛々しい感じがしたものだ。ドイツ系の母に、コダマ・ヨサブロウさんという日本人の化学者の父、そうした血筋の日系人であるマリアは、私に「ボルヘスは奈良で生涯を終えたい、といっていた」と語った。神話の揺籃の奈良に特別の感情を抱いていたという。
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source : 文藝春秋 2023年7月号