三年弱続けさせてもらったこの連載は、今回が最終回。前作の映画が公開された頃に始まって、その後は脚本を書くために机にかじりつき、長いトンネルを掘るような毎日を過ごしてきた。私はコロナ禍前からこんなモグラのような暮らしぶりだが、いつも動いてばかりだった世界の方がこの数年は止まったことで、当たり前だったものが違って見えたことも多く、そんな気づきを書きつつ回を重ねた。
毎回、連載に挿画を入れてくださったのは銅版画家の本村綾さんだ。私の文章はいつもてんこ盛りで、初稿は規定の文字数を大幅にオーバーする。そこから削りに削って、最終的には全段落みっちり文字で埋まった原稿を入稿するのだが、無理な減量をしすぎてきつい文体になることも多い。本村さんの版画は、真っ黒なページに余白を与えてくれていた。しばしば、おそらく私だと思われる女性が風景の中に、力まず、素朴な表情で佇んでいる。それを見るたびに「こんな私だったらいいのにな」と思ったものだ。
シンプルな線に、ところどころ質感の異なる黒。原版と作業をずっと見学したいと思っていたのに、気がつけば最終回が近づいてしまった。忙しい中無理を言って、日曜日に東京郊外の工房を訪ねると、本村さんは一人で出迎えてくださった。出会った瞬間に、あの版画の人だな、と思った。清潔で、素朴で、柔らかい。
机の上に広げられていたスケッチブックには、原稿から発想されたいくつものラフスケッチと、そこから決定した原画が描かれていた。あめ色に輝く銅の板に原画の線を複写した後、鋼鉄のニードルを握って、力を込めて彫っていく。彫った線を指で触らせてもらうと、チクチクと毛羽立ったような手触りが。この細かな銅の「まくれ」の裏に溜まるインクが強い力でプレスされることで、線の周りにふっくらとした滲みが出るのが「ドライポイント」という銅版画技法の特徴だそうだ。油絵やペン画とも違う、この技法ならではの柔らかな線。版画といえば無限に複製可能と思いがちだが、プレスを繰り返すと次第にまくれは潰れて滲みは出なくなり、ベストな状態で刷れるのは十五枚くらいなのだそうだ。
彫りが完成すると、海苔佃煮のように粘っこいインクを銅版一面にたっぷりヘラで塗り込めたのち、白い紗の布で大胆かつ慎重に拭き取ってゆく。すると線の溝にインクが詰まった状態で再び絵が見えてくる。片時も手を止めず説明してくれる本村さんの言葉は、ゆったりとして理解しやすい――と思ったら、大学院で版画を学んだ後、中学の教員をされていたそうだ。人に教えるのは好きだったが、もう一度美術の道で生きていこうと心に決めてからは、自らの作家活動だけでなく、他の画家や彫刻家の版画作品をサポートする職人としても工房で修業を積まれている途上だという。本村さんの手は、人の仕事をあずかるためのぶれない技術をたくわえた確かな軌道を描き、音楽が聴こえてきそうに軽やかだ。
銅版をセットした大きなプレス機のハンドルを回して紙をめくると、ぱっと版画が現れた。線の微細な滲みや、余白にもうっすらインクの色が乗った味わいと風格は、実物を見るまでわからなかった。元は油絵を描いていたという本村さんに、「絵を描ける人が、あえて版画をやるのはなぜですか」と尋ねると、「絵は、どんな技法でもリアルタイムで結果が出ます。版は、自分で描いた絵でも、彫って、刷ってみるまでどうなるのかわからない。銅をものすごい力でプレスして、めくってみた時に、『わあ、こんなになってるんだ』とか『うまく刷れた!』という喜び、自分がコントロールできないところで、もう一段階上がれる楽しさがあります」。
落ち着いた本村さんの話しぶりが一瞬早口になり、上ずった。この人は本当に版画が好きなんだなと思った。好きなことを仕事にしたのと引き換えに、何か大切なものを失ってしまった気もしている私は、少し励まされた。好きなことをやる人は、幸せなんだ。好きなことを仕事にすることが、幸福であるべきなのだと。
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