武藤章(1892〜1948)は永田鉄山、石原莞爾に次ぐ日本陸軍の「戦略家」として、「大東亜共栄圏」の元となるプランを作成し、米英との戦争を回避しようとしたが、かなわなかった。評伝をものした川田稔氏がその悲劇を解読する。
武藤章は、東京裁判でA級戦犯として死刑判決をうけた人物としてよく知られている。また、武藤は日中戦争から対米開戦までの昭和史において、軽視しえない役割をはたした。
武藤と実際に接した作家の山本七平は、武藤が纏う威圧感を書き残している。陸軍内では「傲慢にすぎる」と評されていた。しかし、武藤の言動をつぶさに辿ると、それは「衒(てら)い」に見える。陸軍大学時代の武藤は大正期の反軍的な雰囲気のなかで煩悶していた。また、武藤が立てた軍の戦略からは冷静で幅広い視野もうかがえる。独善的な人物とは思えない。
昭和12(1937)年7月、日中戦争の発端となる盧溝橋事件が起こる。このころ武藤は参謀本部で石原莞爾作戦部長のもと作戦課長を務めていた。盧溝橋事件の知らせを聞いた石原は、事態不拡大、現地解決の方針を示し、現地の日本軍に拡大防止を指示した。だが、武藤は、上司の石原とは異なった姿勢だった。
その理由は、中国は国家統一が不可能な分裂状態にあり、日本側が強い態度を示せば蒋介石ら国民政府は屈服する。今は軍事的強硬姿勢を貫き一撃を与え、彼らを屈服させて華北を日本の勢力下に入れるべきである。現在の事態は、それを実現する絶好の機会である、というものだった。だが、武藤の予想に反し、国民政府は容易に屈服せず、戦争は泥沼に入っていくことになる。
そして、日中戦争開始から約2年後の昭和14年9月、ドイツがポーランドに侵入。第2次世界大戦が始まる。同年9月、武藤は陸軍省軍務局長に就任する。そして、当面、欧州戦争には介入しないとの方針を示し、「国防国家」建設を最重要課題にかかげる。その基本プランが軍務局で作成された「総合国策10年計画」であった。そこでは、中国のみならず東南アジアを含む地域が、資源の自給自足などの観点から「協同経済圏」とされ、南方資源獲得への視角が示されている。東南アジアから獲得すべき必要資源は、石油、生ゴム、ボーキサイトなどとされていた。この「協同経済圏」は、「大東亜生存圏」「大東亜新秩序」とも呼ばれ、「大東亜共栄圏」論につながっていく。この「大東亜生存圏」論の設定が、戦前期昭和史において武藤が果たした役割の最も重大なものであろう。これが太平洋戦争への主要な動因となっていくからである。
「大東亜生存圏」論による自給圏の東南アジアへの拡大はそこを植民地とする、イギリス、フランス、オランダなどとの対立を意味した。とりわけイギリスとの対立は、その存立に安全保障上重大な関心をもっていたアメリカとの対立の誘因となった。
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