昭和12(1937)年に成立した近衛文麿(1891〜1945)内閣は翌年「爾後国民政府を対手(あいて)とせず」という声明を出した。これにより日本は日中戦争を終結させる機会を逸し、太平洋戦争へと突き進んでいく。その失敗の原因を近現代史を研究する辻田真佐憲氏が探った。
今日、フィクションの世界でこんな人物設定をすれば、現実味がないと非難されよう。五摂家筆頭の名門に生まれ、12歳にして家督を継いで公爵となり、眉目秀麗、一高・東大・京大で学んだ明晰な頭脳をあわせ持ち、25歳で貴族院議員となり、45歳で首相に就任したときには(これは伊藤博文についで史上2番めに若い)、国民的な人気さえ勝ち得ていた。ほかでもない、近衛文麿とはそのような人物であった。
にもかかわらずその評価が今日芳しくないのは、ひとたびならず首相の要職にありながら、日中戦争の拡大を止められず、対米開戦の回避もできず、ついに日本を破局へと導いたからだ。しかも当人は肝心なところで首相の地位を投げ出してしまった。ときに東条英機より戦争責任が重いと言われるゆえんである。
では、近衛は人気と見てくれだけで中身がない貴族政治家にすぎなかったのかと言えば、そうではない。
その優れた見識は、近衛がわずか27歳のとき『日本及日本人』1918(大正7)年12月15日号に寄稿した初論文「英米本位の平和主義を排す」ですでに示されている。第一次大戦のパリ講和会議に、全権の西園寺公望にしたがって出席する直前に書かれたものだが、今日なお味読するに足るものである。
ここで近衛が厳しく批判するのは、英米の二枚舌だ。かれらは人道主義や平和主義などを唱え、ドイツはその敵であり悪だと断ずる。たしかにドイツは今次大戦の原因だった。だが、英米がまったくの善だったかと言えばそうではない。かれらはかれらで正義の美名に隠れ、自己の利益を追求しているだけではないか。
英米などの「持てる国」は、早くより植民地を築き、その利益を独占している。したがってかれらにとって現状維持のほうが国益にかなう。それにたいしてドイツのような「持たざる国」は、これから膨張発展しようにもその余地が残されていない。そこで現状打破のため、英米などに挑戦した。そのやり方に問題はあったにせよ、ドイツだけ悪と断ずるのは狡猾な論法である。
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