斎藤明美「高峰秀子の引き出し」

楠木 建 一橋ビジネススクール特任教授
エンタメ 映画 読書

セルフメイドの生活哲学者にして最高度の知性と教養の持ち主

 昭和を代表する大女優、高峰秀子。その特異性は5歳でいきなり天才子役としてデビューしてから、55歳で映画界を退くまで、一貫してスターであり続けたことだ。子役で大成功した俳優は大人になると自滅してしまう。高峰は違った。戦前から売れっ子アイドルとして無数の映画に主演し、戦後になるといよいよ本格化、ありとあらゆる役の本質を掴んで演じきる実力派として日本映画界の頂点に立った。それだけではない。女優業を辞めてからは随筆で活躍、名文家として名を馳せた。

 著者は養女として晩年の高峰を観察し続けた。本書は時空間を共にした人でなければ知りえない高峰の思考と行動の「引き出し」をひとつひとつ開けていく。生活断片の具体的なエピソードの積み重ねからその根底にある価値観と哲学が立ち上がる。

斎藤明美『高峰秀子の引き出し』(文春文庫)847円(税込)

 セルフメイドの生活哲学者にして最高度の知性と教養の持ち主だった。軽佻浮薄、冷酷無残な映画界にあって、少女のころから周囲を怜悧に観察し、素手で自らの価値基準を叩き上げた。動じない。求めない。期待しない。迷わない。甘えない。変わらない。こだわらない――究極の自律と自立。一言で言って、潔い。

 さらに重要なこととして、思考と言葉と行動が見事に一致している。自ら練り上げた哲学が日常の生活と行動の細部にまできっちりと行き渡っている。起きて顔を洗い、掃除をし、食事を作り、入浴して寝る。日常生活のルーティンを頑固なまでに繰り返した。化粧はしない。マネジャーは持たない。人生予定通り。あらゆることに見込みをつけておく。身の丈に合った生活に徹し、余分なものは持たない。届いた手紙はすべて読む。で、捨てる。人の時間を奪う電話はほとんどかけない。他責に流れない。嫌なことは自分の心の中で握りつぶす。

 自己管理はプロの最重要の条件のひとつだ。子役スターとして家族を養わなければならなかった高峰は小学校の教育もほとんど受けていない。一度だけ出た小学1年生の運動会の徒競走ではわざと歩いてビリになった。なぜか。もし転んで顔に傷でも作ったら、撮影中の映画の編集が繋がらなくなる。自分は商品、スタッフに迷惑をかけてはならない――栴檀は双葉より芳し。6歳にしてプロフェッショナルここに極まれり、の感がある。

 自らの基準に忠実に肉体と精神をコントロールした高峰は、50年間に300本を超える映画に出演しながら撮影に遅刻・欠勤したことは一度もなかったという。86歳で死去する最期に2か月余寝ついただけ。自分で癒せなければ死ぬ――自然の摂理に抗うことなく生涯を閉じた。

 高峰のように生きることができる人はまずいない。それでも、こういう人が実在したということを知るだけで気分がいい。爽快な評伝だ。

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source : 文藝春秋 2024年8月号

genre : エンタメ 映画 読書