草生亜紀子「逃げても、逃げてもシェイクスピア 翻訳家・松岡和子の仕事」

平松 洋子 エッセイスト
エンタメ 読書 娯楽

不世出の翻訳家の半生

 この6月に上演された串田和美脚色・演出・美術「あの夏至の晩 生き残りのホモサピエンスは終わらない夢を見た」。原作はシェイクスピア「夏の夜の夢」、翻訳は松岡和子。串田和美があらたに主宰するフライングシアター自由劇場第2回公演には、刺激的な夢が詰まっていた。

 じつは1993年、まだシェイクスピアへの道の入り口にいた松岡に「夏の夜の夢」の新訳を依頼したのが、当時シアターコクーンの芸術監督を務めていた串田だった。以来28年を費やし、松岡はシェイクスピア全37戯曲完訳の偉業をなす。いま80代の盟友同士は、芝居と翻訳をアップデートし続けている。

 本書は、日本の演劇に多大な影響をもたらしてきた翻訳家、松岡和子の実像と仕事に迫る一冊だ。題名からして演劇的な匂いを放つのだが、著者がつぶさに描くのは、次々に無理難題をたくましい意志と精神でもって引き受けてきた「覚悟の物語」である。

草生亜紀子「逃げても、逃げてもシェイクスピア 翻訳家・松岡和子の仕事」(新潮社)1980円(税込)

 物語は、父、前野茂が生きた苛烈な日々から始まる。満州国の司法部次長に任ぜられ、一家は満州に暮らすのだが、茂は終戦直後連行され、11年間におよぶソ連での抑留生活を余儀なくされる。政治犯としての監獄生活のなか、生命線の食べものを犠牲にしてまで露和辞典を自作した執念に、長女・和子がのちに歩む語学との格闘が重なる。また、艱難辛苦を生き抜く父、夫の生死も不明のまま女手ひとつで一家を支える母、ふたりの姿があればこそ、この娘あり。ついに父の帰国が叶うのは昭和31年、和子中学2年の夏。

「赤毛のアン」に胸はずませた10代。東京女子大英文科に進学し、シェイクスピア研究会入部をきっかけに芝居へ傾倒。大学卒業後、劇団雲の研究生となって福田恆存の秘書を務め、本格的に英語の演劇を学ぶため、24歳のとき東大大学院入学。在学中に結婚。また、早逝した弟の毅、認知症を患った姑のツル、近年ガンで逝った夫、陽一との別離にいたるまで、家族の歩みが忌憚なく描かれる。戦争や病に翻弄されながら理不尽を生きた家族のありさまが人間の宿命を思わせ、物語のなかに召喚されるかのようだ。

 串田和美、蜷川幸雄、扇田昭彦、白石加代子ほか演劇人、翻訳の言葉を自分のものとして舞台の上で発する役者……周囲に触発されながら、400年前の英語で書かれた戯曲を現代の日本語に置き換えて「ギリギリを走り抜ける」仕事の流儀とは。謙虚と豪胆と野心を併せ持つ方法論が描かれてすとんと腑に落ちるのだが、原文、既訳、松岡訳の比較例には、時代とともに言葉を更新する価値を再認識させられる。

「逃げても、逃げても」は、つまり「追いかけて、追いかけて」。稀有な翻訳家の後ろ姿がシェイクスピア劇の登場人物のようにも見えてくる。

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source : 文藝春秋 2024年8月号

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