著名人が母親との思い出を回顧します。今回の語り手は、井上荒野さん(作家)です。
私の父は小説家だったが、私の母もまた、小説を書いていた。そのことを母は、父の死後10年ほどが経ったときに私に明かした。私が小説家になって仕事が忙しくなった頃で、母の前で忙しさを愚痴っていたら、突然、話し出したのだ。
私の父は横書きでしか小説が書けない人だった。それで、もともと母は、父がノートに書いた小説を原稿用紙に清書していた。父がアイディアだけを出し、小説そのものは母が書く、ということが何度かあったという。それを父の名前で発表していた。母は短編だと言っただけで、タイトルまでは口にしなかったが、そう聞かされれば、思い当たるものがいくつかあった。「象のいないサーカス」「眼の皮膚」「遊園地にて」などで、父の短編の中でも、私がとくに好きだと思っていた数編がそうだったのではないか。
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source : 文藝春秋 2019年10月号