「いつの時代のことでしたか、あるエンペラーの宮廷での物語でございます」。
これはシャイニング・プリンス(光源氏)の物語、つまり『源氏物語』の冒頭部です。皆さまもご存知のように、『源氏物語』はいまからおよそ100年前、イギリスで英語全訳されました。訳者は大英博物館の学芸員で東洋学者のアーサー・ウェイリー。第1巻刊行の1925年には2刷、3刷と版を重ね、レディ・ムラサキ著『ザ・テイル・オブ・ゲンジ』はベストセラーとなります。
「人類の天才が生み出した12の名作のひとつ」「文学において時として起こる奇跡」「ここにあるのは天才の作品である」「日本の一大傑作」。
こう評されたウェイリー訳は、フランス語・イタリア語・ドイツ語などにも重訳され瞬く間に広がっていきます。1000年前のアジアの小国で、しかも女性が心理小説とも呼べる物語を著していた、と驚きをもって迎えられたのです。
詩人でもあったウェイリーは、まさに語学の天才でした。ヨーロッパの各国語はもちろんのこと、サンスクリット語、ヘブライ語、日本語、中国語などを習得。日本を一度も訪れることなく、独学で古典語まで身に付けました。
さて、私は姉・毬矢まりえとの共訳で、この『ザ・テイル・オブ・ゲンジ』をふたたび日本語に訳すことに挑み、7月に『源氏物語 A・ウェイリー版』(左右社)全4巻が完結致しました。各巻700ページほどの厚さで、約3年半に及ぶプロジェクトとなりました。
ウェイリーの『源氏物語』を日本語訳しよう、と閃いたのは6年ほど前でしょうか。もともと紫式部と『源氏物語』が好きだった私たち姉妹は、ウェイリー訳に出葦って以来、流麗で詩的かつウィットも備えた文体に魅了されていました。これを21世紀の日本に再創造したい、100年前のイギリスの言語・文化を潜り抜けた『源氏物語』を、世界文学として誕生させたい、そう夢見たのです。
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source : 文藝春秋 2019年11月号