アニメ制作会社「京都アニメーション」(京アニ)放火事件で命を奪われた35人全員の氏名を京都府警が公表し終えたのは、事件から40日がたった8月27日だった。通常の事件では、身元が分かり次第、すぐ公表する。だが今回は、京アニが会社として府警に公表しないよう申し入れ、警察も遺族の意思との調整を図ったため、異例の長い時間がかかった。
身元公表に対しては、犠牲者のうち21人の遺族が拒否の考えだった。この間メディア側は公表が筋だと訴えた。これをあたかも遺族や京アニとメディアの対立構図のように受けとる向きもあり、異論が、特にインターネット上を中心に噴出した。メディアに対して「金儲けが目的」という非難も相次いだ。
実名報道が金になるというのは実感とかけ離れている。渦中の人名はネット拡散が先行する時代だ。「売れる」コンテンツになり得ない。そもそも日刊紙は日々の記事と売り上げが直接結びつかない。一方で実名報道は内容にごまかしがきかず、ニュアンスの違いひとつで紛争にもなりやすく、報道コストを上げる。経済的には割に合わないはずだ。
ジャーナリズムが実名にこだわる理由は金ではない。報道の本質に関わる問題だからである。
「ニュースは歴史の第1稿」。この言葉は米国を代表する新聞ワシントン・ポストの社主だったフィリップ・グレアムが述べたことで広く知られる。出来事を克明に記録(ジャーナル)するのがジャーナリズムだ。歴史が匿名で書かれていたのではその機能を果たせない。内容が特定できず、検証ができないものになる。
例えば1963年、関東の地方都市で16歳の女性が殺害された事件があった。遺体発見現場の近くに住む20代の男性が逮捕、起訴され有罪が確定する一方、男性と弁護団は無実を訴えた。
これが歴史として意味を持つのは、具体的な固有名詞が備わってこそである。
被害者が中田善枝であること、罪に問われたのが石川一雄であること、発生場所が埼玉県狭山市であること――この事件、狭山事件では多数の人たちの現地調査をはじめ詳しい検証が行われ、社会の記憶に残り、部落差別ゆえの冤罪との批判を含めた議論が今も続いている。「関東の地方都市で16歳の女性が殺され20代の男性が有罪になった事件」という匿名情報では、検証や調査は不可能、社会での議論は起きず、人々が関心を持ち続けることはない。
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source : 文藝春秋 2019年11月号