河東碧梧桐(1873〜1937)というすごい男がいた。
俳句は正岡子規の掌(たなごころ)から遠心し、吟行の旅程は松尾芭蕉をはるかに凌ぎ、書は明治の三筆(日下部鳴鶴・巌谷十六・中林梧竹)を超えて近代随一の副島種臣に肩を並べる。登山家の草分けにして、その著書『日本の山水』は志賀重昂の『日本風景論』の次の段階に至り、関東大震災の記録としては第一級の「大震災日記」を書き残している。書と文学の秘密の回路に通じ、日本語が漢字語とひらがな語の「二様言語」であること、書が音楽に通じる表現であることにも気づいていた。
にもかかわらず、この国では傑出した存在は「かなわん」と敬遠、無視され、やがては抹消される。碧梧桐は「赤い椿白い椿と落ちにけり」「自由律の祖」という常套句以外は業界によってきれいさっぱり消し去られ、あたかも存在しなかったかのように扱われてきた。
しかしその作品は自らが何者であるかを、かすかにだが確実に声を発しつづけていた。
『文學界』に「河東碧梧桐を書く」と約束したのは20年ほど前。資料は学生時代から少しずつ買い集め、手許にあった。妻の経営する書の専門ギャラリーが近代の書を商っていた関係で、真贋とりまぜて多数の碧梧桐の書を目のあたりにしてきた。東京の根岸子規会、松山の子規記念博物館、伊丹の柿衞文庫、京都精華大、福岡教育大等で碧梧桐について語り、拙著『近代書史』でも大部の頁を碧梧桐関連に割いた。
約束後、担当編集者から度々催促されたものの、初の評伝、400字詰原稿用紙30〜40枚、1年欠かさず連載となると躊躇する心が先立ち、手がけることができないまま徒らに歳月は過ぎて行った。そのうち武藤旬氏が編集長として再び『文學界』に戻ると催促は頻繁になった。
古稀を目前に、今書かねばもう書かないまま終るかもしれないという漠たる予感も脳裡をよぎるようになってきた。これではならじと、2016年頭には意を決して、書初に「大碧年」と書いた。妻以外には伝わらない意味不明の書は、周囲から訝しがられた。それでも事態は変わらなかった。
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source : 文藝春秋 2019年11月号