言語のはざまで生きる
どんな翻訳も難しいが、いわゆる「自己翻訳」は特に難しい。尊敬する書き手の作品を訳す際にも頭を悩ませることは少なくないが、そこには多くの学びと、他者の声に身を委ねる喜びがある。一方、自作の翻訳となると、自らの欠点と何時間も向き合うことになる。
本書には、世界的作家のジュンパ・ラヒリによる翻訳に関する多様なエッセイが、小川高義によるしなやかな訳文で収められているが、広い意味での「自己翻訳」に関する自己分析は極めて明晰だ。
コルカタ出身の両親のもとにロンドンで生まれ、アメリカの東海岸で育った著者は、デビュー短編集『停電の夜に』(邦訳は小川高義)でピュリッツァー賞を受賞。若くして――主にインド人やインド系アメリカ人の物語を描く書き手として――米文学界で不動の地位を築く。
にもかかわらず、40代半ばにローマへ移住し、敢えて自身のルーツから遠く離れたイタリア語で創作する道を選ぶ。その結果、より自伝的要素の強い作品を含め、作家として新境地を切り開いていく。
他のイタリア語作家の作品の英訳や短編選集の編纂なども手掛けながら、2018年にはイタリア語で書いた初の長編小説『わたしのいるところ』(邦訳は中嶋浩郎)を刊行。当初は、他の訳者に試訳を頼んだものの、最終的には自ら英語に翻訳することを決断する。
その過程を記録したメモには、「自己翻訳」を通して作品が破綻しかねない怖さに加え、新たな言語で書くなかで生じた内なる変化を実感できる喜びも記されている。本書の英題は、「Translating Myself and Others」だが、邦題の「翻訳する私」は、「翻訳する」ことが生活だけでなく身体の一部となり、著者自身が「翻訳されていく」様を見事に捉えているように思う。

本書は、著者が幼少期に経験した、「翻訳のジレンマ」の記憶から始まる。幼稚園で母の日を祝うカードに「大好きなママ、母の日おめでとう」(Dear Mom, happy Motherʼs Day)、と書くように先生に言われたラヒリは、家では決して使わない「ママ」(Mom)も、ふだん家で使っているベンガル語の「マー」(মা)もどちらも相応しくないのでは、と戸惑いを覚える。
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