ジュリー・オオツカ著 小竹由美子訳「スイマーズ」

辛島 デイヴィッド 作家・翻訳家・早稲田大学教授

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新たな「プール文学」

 メルヴィル『白鯨』やヘミングウェイ『老人と海』など、制御不可能な海を舞台としたアメリカ文学の傑作は多い。同時に、制御されていながらも危うさが潜む場としてプールが描かれる作品も少なくない。主人公が知人宅のプールをハシゴしながら自宅を目指すジョン・チーヴァーの幻想的短編「泳ぐ人」は優作だ。

 日本文学でも、「泳ぐ人」の邦訳者でもある村上春樹や、教科書にも採用されている「バックストローク」などの作品がある小川洋子の小説でプールは重要な役割を担う。

 この「プール文学」を更新する本書は、『あのころ、天皇は神だった』で第二次世界大戦中の日系アメリカ人の強制収容を扱い、『屋根裏の仏さま』で20世紀初頭に「写真花嫁」として渡米した日本人女性たちを集合的な「声」を用いて描き、読者の圧倒的な支持を得てきた日系アメリカ人作家の3冊目の小説だ。

ジュリー・オオツカ著 小竹由美子訳『スイマーズ』(新潮社)2035円(税込)

 自宅や競泳用のプールは、上昇志向の象徴として用いられることが多いが、本書の前半の舞台は、(会員制ではあるものの)職業も立場も異なる様々な地域住民が集うコミュニティー・プールだ。地下のプールに通う「わたしたち」の多くは、(見事なキックターンを決めて!)人生の折り返し地点を通過し、既に大きな夢や野望は手放している。一時的に嫌なことを忘れ、心身を整え地上での生活に臨めるように、自らのペースとスタイルで泳ぎ続ける。が、プールの底に小さな「ひび」が見つかり、日々のルーティンにも亀裂が入ると、「楽園」や個々の精神状態の脆さが浮き彫りになる。

 全5章からなる本作の後半では、前半の「わたしたち」の一員であるアリスに焦点が絞られる。日系人のアリスは、第二次世界大戦で強制収容された経験を持ち、今は認知症を患っている。第3章と第5章では、アリスの40代の娘で作家の「あなた」が二人称を用いて、水泳のストロークのようなリズミカルな文章を積み重ね、母娘の記憶の断片に形を与えていく。第4章では、記憶障がいを持つ人を介護する「営利型メモリー・レジデンス」の運営に携わる「わたしたち」が語り手となり、アリスをはじめとする新規入居者に向けて、丁寧だがどこか不穏な声で語り掛ける。

 歴史的出来事を扱った過去2作よりも身近な時代やテーマと向き合うにあたり、必要な距離を模索した結果がこの独特な視点や語りのコラージュなのだろう。学生時代に絵画や彫刻を学んでいた著者の文体は、水のように透明で完璧に制御されているようにも見える。だが、水面下では、溺れまいと必死にもがく一人の人物の声が確実に響いている。

 どんな時も丁寧にひとかきずつ進み続けることの大切さを教えてくれる本書は、読後も記憶の奥底に長く残るに違いない。

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source : 文藝春秋 2024年9月号

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