妥協なき、厳しさ。
言うは易しだが、本当にそれを実現したものに出合うことは稀だ。銀座シャネル・ネクサス・ホールで開催されている「MEMENTO MORI ロバート メイプルソープ写真展 ピーター マリーノ コレクション」は、この上ない厳密さを味わうことができる貴重な個展だ。
「芸術家らしさ」にあふれる生涯
写真家ロバート・メイプルソープは1946年ニューヨークで生まれ、若くして美術を志し、当初はポラロイドカメラを用いた作品を制作する。徐々に肖像写真へとテーマは絞られて、著名人やアーティストのポートレートで広く知られるようになる。ヌードや性器のアップを撮った作品も多かったことから、「これは芸術か、猥褻か」と物議を醸すことも、ままあった。
後には人物以外に、花をはじめとする静物写真も多数手がけた。いつだって自身の美意識を画面の隅々まで浸透させ、緊張感あふれる作品をつくり上げたが、1989年にAIDSによって短い生涯を閉じる。
自分のビジョンを押し通すために社会と軋轢を起こし、性的倒錯を作品に持ち込み、夭逝してしまう……。彼のライフヒストリーには、私たちが「芸術家」に無意識に望むドラマティックな要素が、たっぷり詰まっている。
けれど彼の作品の凄みは、そうした派手な逸話に依るわけではない。画面自体の完成度や洗練の度合いが恐ろしいまでに高いこと、それが死後四半世紀を経ても、彼と彼の作品が観る側に強く訴えかける要因である。
ヌードが生み出す完璧な構図
会場を歩いてみれば、誰しもすぐに気づくはず。その場の空気が、なんだか異様なほど張り詰めていることに。そこに身を置いているだけで、気分が澄み渡り、感覚が研ぎ澄まされていくのがわかる。寒い時期の晴れた日に、由緒ある大きな神社の境内で、砂利を踏みしめながら神殿に近づいていくような感覚。
凛とした空気を生み出す素は、もちろん壁面に並んだ写真だ。比較的大きなサイズのモノクロプリントに、均整のとれた身体を持った男性の裸体が大写しになっている。奇妙なポーズをとっているけれど、凝視していると、これ以外にない絶妙なバランスで肉体が画面に収まっているのに気づく。
薄い布を片方の肩に引っかけた女性の立ち姿もある。こちらもポーズはおろか、表情まで計算し尽くされている。まなざしひとつ、指一本のしぐさもゆめおろそかにされず、全体の調和に奉仕している。
メイプルソープの内面には、確固として揺るがぬ美意識が存在する。その美で画面を十全に満たすため、人物の肉体のあらゆる部位が駆使され、全体が綿密に構成されていく。被写体のチョイスやポーズの指定、カメラ機材の選定、プリントの仕方まで、メイプルソープは一切の妥協なく制作を進めたはずだ。彼の創作の現場では、美の実現のためにあらゆるものが存在していた。
美しいかたちを生み出すのと同時に、メイプルソープ作品では、モノの質感からやってくる美も追究されている。会場には花を被写体にした作品も多数ある。花のかたちをどう見せるかに細心の注意が払われているが、それだけではない。どこまでも繊細ながら、意外に弾力があってしなやかでもある花弁の実在感。表面が柔らかい産毛でぎっしり埋まり、良質な絨毯を思わせる触り心地なのであろう茎の物質感。そういった感触がみごとに写し出されており、見ているだけで鳥肌立ってくる。
展示作品はすべてモノクロ写真なので、色の要素は入っていない。モノの形象を白黒で表し、明暗をグラデーションで示すだけで、これほどリアリティある質感を実現するとは。ここにもまた、メイプルソープの美意識がとことんまで浸透している。
美意識がすべてを支配する
大別して写真表現にはふたつの種類がある。撮られた瞬間の前後の動きまで画面から感じさせる動的なイメージと、これまでもこれから先も写ったかたちのまま微動だにしないのが当然と言わんばかりの静的なイメージ。メイプルソープの写真は、圧倒的に後者の色が濃い。
永遠の静寂を感じさせるメイプルソープの作品なのだから、彼の死後、四半世紀以上を経た今も私たちの目を奪い、気持ちを揺るがすのは当然だ。ただの人体や花の形態を写し取るだけで、それがなぜアートになるのかといった疑問は、写真表現に対して常につきまとうものだけれど、今展を観ればそんな考えは払拭される。
強烈な意志に基づいて為された何ものかは、きっと優れたアートになり得るのだと、メイプルソープが実地に教えてくれている。