あっけない最期
昭和5年生まれの花形は、東京世田谷の良家の子息である。家柄もよく、実家は大地主だ。このことから分かるように、花形が暴力社会に飛び込んだエクスキューズを、貧困や差別に求めることは無理がある。
国士舘中学を暴力事件で退学になったあと、明大予科に進んだ。そして安藤組入り。数々の伝説を積み上げていく。
「花形を(安藤組に)連れてきたのはS(後の渋谷裏社会におけるドンの一人。花形とは国士舘中学の同級生)だった。とにかく大人しい印象だったな。礼儀作法も言葉遣いもきちんとしてる。ガタイはよかったし、学生の間ではずいぶん名を売ったらしいけど、安藤と較べりゃ子供だ。なんで安藤組入ったか? そりゃあ安藤に憧れたんだろ。俺たちはみんなそうだ。あの時代の男で、安藤に憧れないヤツはいない」(須崎清。安藤組の面々からマムシと恐れられた安藤組大幹部の筆頭格)
もう一つ、時代もあった。
戦後の愚連隊には復員軍人が多い。花形が憧れた安藤も、特攻隊帰りである。ヤクザや愚連隊を階級社会が生み出した産物と考えれば、彼らのほとんどは敗戦という特殊な状況がない限り、暴力社会に身を投じることはなかった人間たち。世代は少し後だが、花形も時代の波に翻弄された一人だったと言ってもいいのではないか。
繊細さも持ち合わせていた花形敬
また、喧嘩の際には鬼神と化す反面、須崎が言うように、普段の花形を大人しい性格だったという人間は少なくない。花形のヒーローだった当の本人、あの安藤昇もこう証言する。
「狂犬? そんなことないよ。普通だよ、当たり前じゃねえか。花形が懲役に行ったとき(昭和27年5月。百軒店でキャッチバーを経営する白系ロシア人「人斬りジム」と乱闘。その傷が元で死亡させた傷害致死事件)、俺に手紙を送ってきてね。それが残っていれば見せてやるんだが、どこいっちまったのか。とにかく、綺麗な細かい字でびっしりと『出所したらこうするつもりです』とか、『これからは目標をしっかり持って』なんて書いてある。繊細なんだよ、花形は」
ジキルとハイド。誰もが持つこの資質を極端に持っていたのが、花形という人間なのかも知れない。
その上、花形の酒乱は特別だった。腕っぷしが強いから、酔うとまったく手に負えなかった。ヤクザたちが逃げ回ったのは、酩酊した花形がどれだけタチが悪いかを知っていたからでもある。その悪癖は安藤組内部でも、深刻な齟齬を引き起こした。