運命を変えた『水曜どうでしょう』の「サイコロの旅」
『モザイクな夜V3』に初登場したとき、大泉は誰にも指示されていないのに、いきなりレポート先で“緊張する人”を演じたという。その独特のキャラが認められ、翌1996年に後番組として始まった『水曜どうでしょう』にも引き続き出演する。のちに彼と同番組を全国に知らしめることになる「サイコロの旅」の企画は、ディレクターの藤村忠寿に言わせると《はっきり言って出演者は誰でもよかった》が、いざ実際に大泉がやってみたら想像以上に面白かった。同じくディレクターの嬉野雅道によれば、《彼はね、しゃべりに独特の抑揚があるんですよ。独特の抑揚があったから、それをいかしてテンポよく編集していくなかで「どうでしょう」のスタイルができあがっていった》という(※3)。
同じく1996年には、大学の演劇研究会の先輩・後輩である森崎博之・安田顕・戸次(当時は佐藤)重幸・音尾琢真と「TEAM NACS」を結成する。本来は森崎の卒業に際して公演を行なうための1度かぎりのユニットであったが、翌年には東京で就職した森崎がやはり5人で一緒に地元で芝居を続けたいと戻ってきて、復活した。
大泉はTEAM NACSの公演に参加しながら、『水曜どうでしょう』によって北海道で人気を集めていく。やがて札幌の街では彼のしゃべり方を真似する人がたくさん現れたという。大学卒業後、26~27歳ぐらいのときには、地元のテレビ・ラジオで計8本近くレギュラーを抱えていた。同時期の1999年にはテレビ朝日系のバラエティ番組『パパパパPUFFY』に準レギュラーとして出演するようになり、全国的にも次第に知られ始める。
東京進出には苦戦も…それを機に俳優への転身を果たす
ただ、東京でのバラエティの仕事は、必ずしも北海道の番組のようにはうまくいかず、悩むこともあったようだ。2002年には『水曜どうでしょう』のレギュラー放送が終わる。これを機に、TEAM NACSのメンバーが所属するオフィスキューは彼らの活躍の場を広げるため、2004年に大手芸能プロダクションのアミューズと業務提携する。これにより大泉は31歳にして本格的に東京に進出した。しかし、そこで彼がまず選んだのはタレントではなく俳優の仕事だった。
これについて大泉は後年、《自分がこれから年を取って、子どもを養わなきゃいけない時に、ずっとこれで食っていけるのかなと、三十ぐらいになって考え始め》、一度仕切り直して、《ドラマや映画をちゃんとやろうと》決意したと説明している(※4)。ただ、その一方で、下手に自分の得意な笑いで勝負して、万が一失敗したら立ち返りようがないし、北海道の人をがっかりさせてしまうという思いもあったようだ(※5)。
東京で俳優としてスタートしてまもなくして、フジテレビ系の『救命病棟24時』で連続ドラマに初出演を果たす。このときのプロデューサーは、コメディリリーフ的な役のできる俳優を探していたとき、取材を受ける大泉のトークを見て起用を決めたらしい(※4)。