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日本におけるジャーナリズムの機能不全

 東京新聞の望月衣塑子記者の空気を読まない質問をきっかけに政権幹部と官邸記者たちの「癒着」ぶりが露わになったが、日本の組織メディアは永らく、参入の自由に対して高い障壁をめぐらせたムラ社会を保持してきた。これも小さな「世間」である。カルロス・ゴーンの逃亡劇(☆1)があらためて世界に知らしめた人質司法の悪習も、政治記者と同じくアクセスジャーナリズムの軛から逃れられない各社の司法記者にとっては、決して追及できない問題というだけでなく、その温存に手を貸してきたという意味で共犯(少なくとも共謀共同正犯)の関係にある。この前近代国家ばりの人権侵害が世紀を越して20年も経たいまの世に残り続けていること自体、ただただこの国のジャーナリズムの機能不全と後進性を傍証している。

 東京五輪報道にも観察できる日本のメディア企業と組織ジャーナリズムの足枷の問題については、巻末の本間龍インタビューを併せてお読みいただきたい。

©️iStock.com

 「表現の自由」と「公共の福祉」

 小論「『ピエール瀧』は視聴者に悪影響を与えるか」は、コロナ自警団とはまた別の、正義の暴走の問題に目を向けた。

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  2019年秋、日本赤十字社が人気漫画のキャラクターを起用した献血キャンペーン用ポスターに「過度に性的だ」などと批判が寄せられる騒動があった。女性キャラの胸を強調した(ように見える)デザインを人権派弁護士らが問題視し、それに対して「保守的な風紀委員に成り下がったリベラル」と反発する声が上がり、SNS上で論争を巻き起こした。 

  ポスターを指弾した側の主張に「これは間違いなく環境型セクハラ。理由は私が不快と感じたから」というものがあったが、これは、昨今世界中で吹き荒れているポリティカル・コレクトネス旋風(というよりハリケーン?)の性格の一面を示しているかもしれない(あくまで一面だが)。

 あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」問題をめぐって愛知県が設置した検証委員会の報告の中で、個人的に最重要と思われるのは次の指摘だ。 

「単に多くの人々にとって不快だということは、展示を否定する理由にはならない。芸術作品も含め、表現は、人々が目を背けたいと思うことにも切り込むことがあるのであり、それこそ表現の自由が重要な理由」

「表現の自由は重要な人権であり、制限が許されるためには、それに見合った理由(どのような意味で『公共の福祉』に反するのかを明確に特定する必要がある)が必要である。単に、漠然と『公共の福祉』に反すると思うとか、一定範囲の人々が不快に感じるという理由では表現の自由を制限することはできない」