Aさんは、この高校3年生以降が一番つらかったと言っているが、それはケア負担だけが理由ではない。それよりもむしろ「ひとりきり」だったからだと言う。誰一人として相談できる相手はいない。頼れるきょうだいでもいればいいが、それもない。何かあってもその都度ひとりで判断しなければならない。「ひとりきり」の状況による負担がおおきかった。
「毎日……不安でいっぱいで……本当に、つらかったです」
さらにこのときの状況をこのようにも語った。
「世話が必要じゃない人が……自分しか、いなかった」
何とも言えない表現である。自分がケアをするしかない。頼れる人がいない、というケア役割の話だけではないだろう。
Aさんにとって家族は「ケアの対象」ではない。さまざまな苦難にも一緒に向き合い、時には楽しく笑い、固い絆で結ばれた、愛する家族である。その家族が少しずつ元気を失い、自分を残して変わっていく。深い悲しみ、喪失感、恐れが、そのセリフの根底にあるように私は感じた。それを分かち合える人もいない。この「ひとりきり」の感覚を、高校生のAさんは「ひとりきり」で背負っていたのである。
ただ、この時期、唯一の理解者がいた。それは高校の先生である。Aさんの欠席の多さを心配し、声をかけてくれた。その先生にだけは家のことを話すことができ、Aさんが何とか卒業できるよう、相談にのってもらえたという。
先生は介護や福祉サービスのことをよく知っているわけではなく、Aさんの置かれている状況を根本から変えてくれることはなかった。しかし、「ひとりきり」だったAさんにとって、時々行くことができた学校に、話を聞き、理解してくれる人がいて、親身になって卒業できるよう一緒に考えてくれるということ。それだけで大きな支えになったという。
ケア一色、先のことなど考えられない
高校は出席日数ぎりぎりで卒業することができた。卒業に合わせるように、祖母が退院してくる。祖母も要介護の状態(当時、要介護3程度)であり、Aさんは母親と祖母のケアを一手に引き受けることになる。
このときにはすでに介護保険制度が始まり、祖母はホームヘルパー、訪問看護のサービスを利用できた。ケアマネジャーの定期的な訪問もあった。その約1年後、Aさんが20代になった頃、母親の状態が悪化し、立つこともできず、寝たきりになる(当時、要介護5)。母親もホームヘルパーと訪問看護、訪問リハビリのサービスを利用し始めた。