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改元には祭祀的な機能がある

猪瀬 昭和天皇が亡くなるということはものすごい衝撃で、僕も当時テレビに出ましたけど、全員喪服を着ているんですよ、スタジオの誰もが。僕は地味ですが普通の服を着ていったけど、そんな人は他にいませんでした。丸山眞男さんがそれを見て、猪瀬だけ普通の服を着ていると言ったらしいですが。重要なのは天皇が死ぬということと、元号が変わるということが同時に行われる。天皇が死ぬということは予定調和ではなく、突然亡くなるということですよね。そこで時間が流し去られる。時間が更新される。そのときまでに生じたカオスが全部過去のものとして、流されていく。ここには、祭祀的な機能がある。日本の天皇はそういう役割を担わされていたんです。

 万世一系という、皇室が存在するということ自体が稀有なことです。アメリカの場合には大統領選が1年近く争われる。国民のいろんな感情をかき混ぜて攪拌する、内乱に等しいものだと僕は思う。南北戦争が1860年代にあって、そのとき米国内は大変混乱したわけですが、それを4年に1回の内戦に置き換えていき、「王」の正当性を担保する。日本の場合は、万世一系の王がいる。実務は首相がやるけれど、首相には権威はない。大統領は権威と権力と両方あるわけなので、内戦をやってその正当性を担保する。

「王」の観点から大統領制と象徴天皇制を語る猪瀬氏(左)

 僕は山口昌男という文化人類学者と、『ミカドの肖像』を出した後に、『ミカドと世紀末』というタイトルで対談集を出しました。そこで、山口さんはこういうことを言った。ウィリアム・ウィルフォードっていうユング派のセラピストが書いた『道化と錫杖』という本がある。その本は、王は潜在的なスケープゴートであると主張している。そして、その役割をしばしばプリンスやプリンセス、宮廷の道化に担わせると。まさにその通りだなとも感じます。

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 敷衍すると、アマテラスにとってはスサノオというのがプリンスにあたり、あらゆるカオスを受け入れると。ヤマトタケルでもいいですが、ここにもそういう構造がある。あるいは、シェイクスピアの『リア王』では、王が最後に孤立して追い詰められたときに、そこにいるのはリア王と宮廷付の道化だけ。つまり、王として自らスケープゴートになっていくわけですね。王権の持つすさまじいエネルギーがあって、その捌け口をどこかに担わせていく。イギリスではダイアナ妃が亡くなりましたけど、彼女がスケープゴートとしてすべてを背負って消えていった。その前にはエドワード8世とシンプソン夫人の世紀の大恋愛があって、それで追放されていったこともあった。