『M-1グランプリ』の審査員を6回務め、多くの芸人から「リーダー」と慕われる、渡辺正行。タレントとして活躍する傍ら、主宰する「ラ・ママ新人コント大会」から、ウッチャンナンチャン、爆笑問題、バナナマン、オードリーなど、数々の人気芸人を輩出してきた。
ここでは、渡辺正行がこれまでの芸能人生を記した著書『関東芸人のリーダー お笑いスター131人を見てきた男』より、コーラ早飲みバトルで一世を風靡した話を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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コーラ早飲みで得た“バブル”
コント赤信号は、1980年に本格的にデビューを果たした後、『オレたちひょうきん族』によって、全国的に知名度を上げることができた。
初出演の82年10月から、番組終了の89年10月まで、たけしさんやさんまさん、紳助さんなど、無数の実力派芸人たちと7年間も共演できたことは、コント赤信号にとって、本当に有意義だった。
ただ、85年くらいだろうか、『ひょうきん族』のコーナーに、三人が別々に出演することが当たり前になってからは、「コント赤信号にとって」というよりも、「一芸人にとって」と言い換えた方がいいかもしれない。
そのうえ、ネタを披露する番組が減り、コント赤信号として活動する機会が少なくなった一方、一人の仕事が徐々に増えていた。
それに伴い、石井は、それまで名乗っていた本名の「石井章雄」から「ラサール石井」になった。
もともとは、『おもしろプレヌーン』(テレビ東京)という情報番組の中で、石井が本を紹介するコーナーを担当することになったとき、鹿児島県の名門・ラサール高校出身ということから、ディレクターの近藤正人さんが命名。コーナー名を「ラサール石井の読書の部屋」にしたところ、石井がいたく気に入り、芸名として使うようになった。
その頃、俺が初めて一人で出演し、成長させてもらった番組がある。
それは、タモリさんが司会を務め、82年10月から2014年3月まで、30年以上にわたって、日本のお昼を彩ってきた長寿番組『笑っていいとも!』だ。
俺は、85年から4年半くらい、レギュラー出演していた。
そのきっかけを作ってくれたのが、漫才ブームを牽引した『THE MANZAI』や『ひょうきん族』、『いいとも!』など、数々の名物番組を手掛けたフジテレビのプロデューサー・横澤彪さんである。