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山田道美棋聖が34歳でも「若手」だったわけ

 最年少記録がかかった屋敷は2期連続で中原に挑み、2期目に戴冠を果たしたわけだが、実は中原のタイトル初戴冠もほぼ同じような状況だった。歴史は繰り返すとはよく言ったものだが、あるいは中原の初タイトル戦が、将棋界における史上初の若手同士のタイトル戦だったと言うべきなのかもしれない。

 中原の初タイトル戦は、20歳だった1967年の第11期棋聖戦。五段の新鋭棋士として山田道美棋聖に挑戦した。20歳・五段のタイトル挑戦は、いずれも当時の最年少・最低段記録である。受けて立つ山田は34歳だから、今の感覚では若手とは言えないかもしれない。2022年現在の棋界に当てはめると、佐藤天彦九段、広瀬章人八段、糸谷哲郎八段らの年代だ。

 だが当時の山田は、この第11期棋聖戦が自身のタイトル初防衛戦だった。それだけではなく、この第11期棋聖戦は、史上初めて「昭和生まれ同士の棋士で行われたタイトル戦」なのである。

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 1960年代の棋界は、大山康晴十五世名人の無敵時代だったと言ってよい。藤井をしても更新できるかどうかわからない「全タイトル戦連続出場50期」の大記録を作ったのも、この時代のことである。要するに、当時は行われるすべてのタイトル戦に大山が対局者として存在していたのだ。

両対局者の年齢を足すと「46」となる。過去最少は、屋敷と森下の「42」(写真提供:日本将棋連盟)

対局相手へのお祝いにシューベルトのレコード

 その大山の大記録を止めたのが、第11期棋聖戦の山田と中原である。五番勝負第1局の観戦記で「タイトル戦といえばここ十数年来、大正っ子の大山名人が必ず一枚加わっていた。それがいま昭和っ子同士で戦っている。これも時代の流れであろう。長い間大山名人のタイトル戦を観戦してきたぼくは、ものさびしさ、ものたりなさをおぼえてならない」と書いたのは、明治生まれ(1910年)の加藤治郎名誉九段である。

 棋聖戦で挑戦を決めた中原は、勢いに乗って山田棋聖との番勝負でも第1、2局を連勝した。初タイトルがかかった第3局について、中原は以下のように書いている。

「私はあと一番ということで、コチコチに堅くなり、食事も少ししかノドを通らなかった。逆に山田さんは、それまでの堅さがとれ、すっかりリラックスして、実力を出し切っていた。対局の前日に娯楽場で卓球に興じたが、いくらやっても山田さんに勝てなかった。もともと私よりはうまいのだが、一回も勝てなかったのは不思議だった」

 結果としてこのシリーズは第3~5局を山田が連勝して、中原の初戴冠はならなかった。第5局の観戦記には、山田の談話が紹介されている。

「一、二局をひどく負かされた時は、申し訳なくて対局料を返上しようと思いました。三局目からはタイトルを獲られた後のことばを考えたり、中原君のお祝いに好きなレコードを上げようと思ったり、なにしろ鉄腕アトムのような男ですからね」

 中原は翌12期にも山田に挑戦し、今度は3勝1敗で棋聖を奪取した。当時の史上最年少タイトル記録である。直後に山田からお祝いのクラシックレコード、シューベルトの「冬の旅」が贈られたそうだ。