日本は難民の受け入れに消極的な国だ。ただ、主に1980年代を中心に、他の西側諸国と歩調を合わせる形で、政情が不安定だったインドシナ諸国(ベトナム・カンボジア・ラオス)から1万人規模の難民を受け入れたことがある。このときの難民の大多数はベトナム人だったが、カンボジアからの難民もある程度いた。それが彼らだった。
元難民たちはいずれも、いまや日本に30~40年定住し、多くは日本名を名乗っている。そんな彼らにとって、寺は自分たちがカンボジア人だったことを思い出せる貴重な場になっているらしい。
昼食時になると、おばちゃんたちがカンボジア料理を作ってくれたので、みんなでいただく。鳥の丸焼き、春雨サラダ、パパイヤサラダ、豚肉の煮物。東南アジアの料理に欠かせないハーブは、日本で育てたものだ。
意に沿わずポル・ポトの兵士にさせられた
「……私は昔、ポル・ポトの軍にいたことがある」
食事をしながら話していると、昼間のビールに酔った60代後半の男性が日本語でそんなことを言いだした。ひとまず日本名をヤマダ(仮)としよう。
だが、なぜポル・ポト側の元兵士が、難民になって日本に定住したのか。事情を聞くと、彼はもともと、親米派のロン・ノル政権がカンボジア西部のバタンバン周辺に駐留させていた政府軍の少年兵だったという。
「プノンペン生まれだ。父親がロン・ノル政権の税関職員で、私も高校までは通ったのだけれど、ロン・ノルがデモ動員ばかりおこなって勉強の機会はなかった。それで、1973年に政府軍に入った」
しかし1975年、ポル・ポト率いる共産主義勢力クメール・ルージュが首都プノンペンを陥落させ、ロン・ノル政権は崩壊する。この際、中央から遠かったバタンバンの旧政府軍部隊は、組織をそのまま温存する形でポル・ポト政権軍に鞍替えさせられた。結果、10代後半のヤマダは知らない間に、クメール・ルージュの末端兵士にされてしまった。
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「でも、同じにされたくない。私たちは時勢の流れで入ってしまったが、心は別だった。残虐なことはやっていない。最初からポル・ポト軍に参加していた連中は人間じゃないよ。仏教の慈悲の心を持たない。だからあんなにひどいことができる。上の命令をなんでも聞く」
後年になり、ヤマダの従軍中にプノンペンの実家では家族の大部分がポル・ポト派によって殺され、悲観した父は自殺したことが判明した。当然、ヤマダ自身も反ポル・ポトだ。