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――「あるもの」を「あるもの」として描く、と。

渡辺 「何でも抑圧して、排除して、見えないことにすればいいというものではない」という危機感が、個人的にあります。人間って、もっと怖い生き物のはずで、「不都合な欲望」にも「置き場所」がないといけない。そして、古くからそういう役目を担ってきたのが、芸術や文学だったはずなんです。

 当然、作品の中でも外でも誉められなくていい、擁護されなくていいんだけれど、この作品世界の中に「ただある」、その「置き場所がある」ということだけでも示したい。これは非常に難しいことなんですが。

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ものすごく大嫌いな人が、頼りになることがある

――1話を見て、村井がただの「嫌なおじさん」という役割のためだけに存在するのではなさそうなのは、伝わってきました。

渡辺 ネタバレしない範囲で言いますと、村井がこのあと、ある大事な役割を担っていきます。人間って決して一義的ではない。それは私自身が日々生きながら、いろんな方と関わり合いながら感じていることです。

 ものすごく大嫌いな人が、実はある状況に居合わせたときに、非常に頼りになることがある。そうした「恩恵」を受けながら、私の現実もあるんだろうなと思います。そういうことを、自分は作品世界の中でやりたいと思っているんだろうな、と。

©文藝春秋

――「表裏一体」「二律背反」というような概念が、タイトルにつけられた「希望、あるいは災い」という文言にも表れているのでしょうか。

渡辺 希望なのか災いなのか。たとえばコロナもそうで、もちろん最初は災いとしてやってきて、今私たちも災いとして受け止めていますが、これが100年経ったときに、もしかしたらここで何か大変良いことが起こっているとか、良い方向に社会が変わる契機であったという解釈があるかもしれない。

 私たちはつい、起こっている物事を「善」とか「悪」とか、解釈しやすいように分けたがるんですけれど、本当はどちらとも言えないんじゃないかなということは、この作品を書きながら、ずっと感じていたことです。この、「どちらであるか、ひと言では言いきれないこと」をみんなで共有することが、大事なのではないかなと思うんです。

写真撮影=山元茂樹/文藝春秋