われわれ70年代安保世代が流れたのは……
——坂本さん、あの時期アープを弾き倒されてましたものね。
山下「もともと藝大のシンセサイザー専攻ですから。彼がYMOに参加する直前に作ったソロ・アルバム『千のナイフ』は、当時最先端だったコンピューター・ミュージックで、毎日見学に行ってた。そのせいで、1曲カスタネットで参加しています(笑)」
——「政治の季節」と音楽的な実験の興隆がシンクロしていた。おもしろいものですね。
山下「坂本君にしても僕にしても、70年安保で人生が狂ったクチなんです。これはよく言われることですけど、60年安保を機にドロップアウトした人たちが流れた先が雑誌メディア。雑誌文化は60年代安保世代が作ったと言えるんです。同じ世代が年を重ねるのに合わせて、雑誌も対象年齢が上がっていってますよね。育児雑誌、中年雑誌と来て、今や老人雑誌が花盛りになっている。
一方、われわれ70年代安保世代が流れたのは音楽メディア。たとえば、そうだな、谷村新司さんは、元々は佐藤春夫に憧れて詩人を目指していたところに、ビートルズが出てきたせいで、アリスを結成することになったそうです。60年代の音楽にはそういうパワーがあった。その圧倒的な衝撃に引き寄せられて、本来ミュージシャンになんかならないでいいやつが音楽業界に入ることになったんです。その後の音楽業界が革命的に爆発した背景には、そういう歴史的事実があります。
そういった濃密な時代を共有していると、それから何年経とうと、何年会わなかろうと、友達は友達なんです。今となっては政治的なスタンス、意見の違いというのはそれなりにあって、僕としては彼がやってるリベラル系の運動に参加しようとは思わない。人間というのはおもしろいもので、そうした立場の違いが分かつ関係もあれば、分かたない関係というのもあるんですよね。僕と坂本君の場合は後者でね。たまさか、彼のほうから声をかけられることもなくはないけど、“ごめんなさい。ダメです”と答えればいいだけで。だからって友達でなくなることは、決してないんです」
孤独な小学校時代
——いい関係ですね。
山下「あの人がまた、その手の運動が好きだから。あるでしょう、野坂(昭如)さんとか大島(渚)さんとかのような、何というか、おっちょこちょいな感じ。でも憎めない(笑)」
——達郎さんからすると知的な“おっちょこちょい”に見えるんですね。
山下「同じ高校紛争を経験してはいても、彼と僕では家庭環境も違いますからね。坂本君のお父さんは、三島由紀夫や中上健次を担当した河出書房の名編集者。聞いたところによると、親戚は軒並み東大という家系だそうで。
僕の家は真逆でね。祖父の代から没落続きなんです。祖父も父親も工場経営に失敗して、小学生の頃から両親は共働き。ずっと鍵っ子でした。しかもひとりっ子なので、おのずとひとり遊びが上手になる。ラジオで落語を聞いて物まねをしたりするような孤独な小学校時代を送ったことは、間違いなく僕の人格形成に影響していると思います」
高校を半分ドロップアウトして…
——落語の物まねと聞くと、一見ポジティブなイメージがありますけど。
山下「いや、そうともかぎらないです。『厩火事』で最後に(髪結いで夫を食べさせている)女房に亭主が言う“お前に怪我でもされたら明日から遊んで酒が呑めねえ”というサゲ。あれなんか大変なシニシズムですよ。僕、落語のほかに浪曲も好きなんですが、どちらもそれこそ無学の大衆のための芸能。生活の苦しさを笑い飛ばすためのうっぷん晴らしの側面もあるので、そういうのはえてして冷笑的になる」
——そんな落語に惹かれる小学生って……。
山下「孤独なもんですよね。とはいえ、そんな鍵っ子生活にあって、僕の母親は教育さえあればと、必死で僕に教育投資してくれて、そのおかげで基礎教養だけはなんとかまかなえた。美術全集や百科事典を揃えてくれたことが、僕の雑学に関する大きな基板になってもいる。
その一方で、ミュージシャンをやる上では、高校を半分ドロップアウトして、学校行かずに映画を観て本を読んでいた時期がなかったら、今の自分はなかったとも思うんです。そこで培った知識が、どれだけ曲を作る上での助けになっているか。あとは暇つぶしに通ってたジャズ喫茶やクラシック喫茶ね。新宿のヴィレッジゲートなんて24時間営業で、朝のコーヒーが50円だった。そういうところに朝から晩まで居続けて、何晩泊まったかわからない中で、当時の新譜だったスティーヴ・マーカス『トゥモロー・ネヴァー・ノウズ』とか、マイルス・デイヴィスの『イン・ア・サイレント・ウェイ』なんかを聞いてた。ある日、ものすごくアバンギャルドなジャズ、下敷きをガリガリやってるような演奏がかかったと思ったら、レスター・ボウイの『ナンバーズ、1&2』だった。それは今でも愛聴盤です」