「村井秀夫刺殺事件を知ってる?」

 と私は尋ねた。

「いえ、知りません」

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 恥ずかしそうにうつむいた。かつての私と同じ暴力団担当記者だから、彼女も当然のように村井事件を知っているものだと思い込んでいた。

 ——そうか、あれは20代のこの記者が生まれて間もないころの事件なのだな。

 それは1950(昭和25)年生まれの私が、同じ年に勃発した朝鮮戦争や日本の新聞界で荒れ狂ったレッドパージを知らないのと同じだ。それくらいに古く、歴史の闇に消えようとしている疑惑なのだ。

村井刺殺事件実行犯にインタビューした記者

 そのとき、「週刊朝日」編集長を務めた森下香枝(かえ)の癖の強い、山猫のような顔を思い浮かべていた。森下は、私とその若い女性記者のほぼ真ん中の世代だ。私が遅れた団塊の世代ならば、森下はバブル後の世代である。

 私はノンフィクション作家に転じた後、この村井刺殺事件を掘り起こそうかどうか、迷っていた時期がある。そのとき、森下が書いた記事を見つけて、唸ったことを思い出したのだ。

 それは彼女が週刊朝日の記者時代に、12年の懲役刑を終えて出所してきた実行犯の徐に長時間のインタビューをし、同誌に掲載したものだった。

 森下は右翼関係者と知り合いになって彼を紹介してもらっていた。正式にインタビューする前に飲み屋などで何度か会って言葉を交わしたという。その場には暴力団組員らしき男たちもいた。そうして記事掲載のタイミングを計った。

 インタビューを焦らない、そして特ダネにふさわしい機会をしぶとく待つ——。これは後述する「神戸連続児童殺傷事件」でも、彼女が取ってきた流儀である。上司は「早く結果を出せ」と迫るが、それを現場の記者がどう受け流すかが、成否を分ける。

 徐へのインタビューは、オウム真理教事件の最後の特別手配犯が逮捕された2012年に改めて行った。その場所は朝日新聞社だったような記憶が彼女にはあるのだが、とにかく徐は指定した場所に堂々と現れ、カメラマンの前でポーズを取った。

朝日新聞東京本社 ©文藝春秋

 その模様は、〈オウム“村井事件”の実行犯が激白「僕が村井を刺した本当の理由」〉というタイトルの記事として掲載される。

 このなかで森下は、「教祖・麻原彰晃による口封じ説」などについて質問した。だが徐に「背後にある陰謀を隠すことなどできない」と強く否定される。

 例えば、森下がこう質す。

「共犯として暴力団幹部が後に逮捕され、裁判では無罪になった。だが、謎がたくさん残されている」

 徐の答えはこうだ。

「この事件はもう判決が出て終わっている。今もお話しできないこともある。だが、なぜ、僕が事件を起こしたか。それは、最終的には『個人の憤り』です。あの当時、社会全体がオウムに対し、憤りがあったし、僕も『とんでもない連中だ』と強い義憤を感じていた。いろんな要因はあったにせよ、殺害しようと決断したのは僕です。一番の動機をあえていえば、地下鉄サリン事件の映像を見た衝撃で義憤にかられたことです」

 その部分を読んで、私は疑問が再び膨らむのを感じた。

 ——今もお話しできないこともある、というのは、やはり隠している真実があり、いつか話すこともありうるということだろうか。

 しかし、森下が先んじて謎に挑んでいるのなら、私がのこのこと出ていくこともない。そう思って、村井刺殺事件は私の中の「未解決ファイル」に入れてしまった(ただ、私がいまだにマルボウ刑事の集まりに出かけ、村井事件捜査について耳を傾けるのは、その事件に対する興味とわだかまりが沈殿しているからだろう)。

 森下の実行犯インタビューはほとんど忘れられている。彼女が手掛けたスクープはたくさんあって、その一つに過ぎないということもあるのだろう。

 雑誌の世界で、彼女は1997年に起きた「神戸連続児童殺傷事件」を取材した週刊文春記者として知られている。この事件では、「酒鬼薔薇聖斗」と名乗る14歳の中学3年生が2月から5月にかけて、兵庫県神戸市須磨区の小学生5人を次々と殺傷した。そのうえ、切断した男児の頭部とともに「ボクは殺しが愉快でたまらない」という「挑戦状」を中学校の正門前に置き、国民に衝撃を与えた。