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 犯人はやがて「少年A」と呼ばれる。森下は郷里の兵庫県で起きた事件だったから自分で志願して、「少年A」の両親の手記を担当した。

 ここで私が書きたいのは彼女の怯まぬ取材姿勢なのだが、週刊朝日記者として登場したり、文春記者として出てきたりして、読者の方々に混乱を与えそうなので、まずは森下の30年に及ぶ、紆余曲折の記者人生を紹介せざるを得ない。

 彼女のスタートは1992年、地方紙の大阪日日新聞である。兵庫県の大学を卒業したが、大手新聞社の試験に失敗し、金融機関の内定を手にしていた。大学のOBで神戸新聞の女性記者に「落ちちゃったんですよね」と漏らしたら、「そんなんだったら、どこでもいいからとにかく入ったら」と叱られる。

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「そこからまたいろんなところを受ければいいじゃない。ウジウジ言っていたってしょうがないでしょ」

 そうやって背中を押された世界は、自由で生き生きとしていた。危ういところもあったが、強く惹かれた。

 まずは大阪・天王寺動物園の端にある「動物園記者クラブ」に配置される。動物園や西成のドヤ街の暴動、管内の事件を取材し、大阪府警ボックスをのぞいたりしながら、大阪読売新聞を飛び出して黒田ジャーナルを主宰した黒田清のもとにも通った。といっても黒田の行きつけの寿司屋で飲みながら話を聞くのだ。そこで戦争と差別を憎む黒田のジャーナリズム論を聞いたり、黒田の弟子のジャーナリスト・大谷昭宏から教えを受けたりした。自由学校のようなものである。

神戸連続児童殺傷事件の取材を志願

 それから1年もしないうちに、夕刊紙・日刊ゲンダイの大阪編集部へ移り、3年半ほど修業した後、スクープを連発していた憧れの「週刊文春」に飛び込む。業務委託契約だったから両親は心配したが、仕事に追われ不安を忘れてしまった。

 神戸連続児童殺傷事件が起きたのだ。仙台の不倫騒ぎを担当させられていたものの、連続児童殺傷事件は、少年犯罪史上最も残忍な、理由不明の犯行である。神戸の警察関係者から「少年A」につながる核心情報をもらっていたこともあり、「ぜひ担当させてくれ」と声を上げた。

 メディアによる暴風のような過熱取材が続いていた。だが、なぜ「少年A」が理由もなく次々と子供を殺傷したのか、彼はどのように育ったのか、家庭環境のどこに問題があり、その教育と殺人はどんなつながりがあるのか——両親の話を聞き、真実と分析を報じるのは、メディアの使命ともいえるテーマだった。しかし、彼女の声は上司に相手にされなかった。

 編集長が交代したので、また「行かせてくれ」とにじり寄る。今度は「経費は出してやるが、お盆休みに自分で行ってきたらどうだ」と言われた。これは少し後のことだが、冬近くに同僚が激励に行くと、彼女は夏服のままスカーフを巻いて取材をしていた。

(文中敬称略)

ノンフィクション作家・清武英利氏の連載「記者は天国に行けない」の全文は、「文藝春秋」2023年3月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されている。

文藝春秋

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