こんどの熊楠の本は新書判だ。重力があって、しかも中心がない人物を、軽気球に乗せて体重を量るかのような、とんでもなく勇敢な挑戦だと思った。著者が『熊楠と幽霊』を書いた人なので、もしかすると、もしかするかもしれない発見が期待される。
読み終わって感じた第一印象は、こうだ――むずかしくて長大な基調講演のあと、すっかり気楽になって自由に質疑応答をぶつけ合った二次会の感じ?
本格的なむずかしい基調講演については、本書はたくみに体をかわしている。まあ、聞いても聞かなくても問題はないからだ。その代わり、談論風発の質問大会で盛り上がる。ときどき出る鋭い突っ込みが刺激的だった。
つまり、「熊楠は何をなしとげたのか?」という大疑問は、この場合の基調講演に相当する。まともに論じると、普通の読者には眠くなる。しかし、席を替えて大喜利のような「にぎやかな知識」にしたところが工夫だった。
たとえば「熊楠の神社合祀反対って、どうなの?」と、問う。すると、著者の答えも遠慮がない。つまり、「村に猿の神様と狐の神様がいたとして、猿のほうが狐に吸収合併されたのでは、古い信仰が消えて、やがて村の自然も滅びる」と説明されるが、じつは熊楠の考えはむしろ正反対の順序だった。自分の村の鎮守様がつぶされるのを止めてくれと頼ってきた親類に対し、熊楠は「エコロジーの観点から、信仰ではなく神社の森をまず守れ」と指示した事実も挙げる。これで親類と喧嘩になり、合祀阻止に失敗した事例もあったとする。
ならば、「エコロジーってそんなに大事なんですか?」という疑問が当然出るが、こんな答えが示される。「そりゃそうですよ、熊楠は信仰を持たない人だったから、村を存続させるには信仰を守るのではなく、その環境を維持しなけりゃいけないという意見です」と。ならば、ぼくも次の質問をしたくなる。「え、熊楠ってそんなに理知的な人だったの? 民俗学者なのに?」
すかさず著者は、熊楠が妖怪業界(あ、わたしもそうだ!)に冷遇されているという事実を示す。まさに、その冷たい理知性が原因だと。紀州の山にごまんといる山人系の妖怪に対して、古代先住民の面影を夢想した柳田國男とは反対に、「あれは特殊な事情で山暮らしをしているだけ」と、オオカミに育てられた少年の図などを突きつける。「じゃあ熊楠はロマンを解さないの?」著者の答えは、イエス、妖怪なんていないから……。
この問答は、読者の興味を維持しながら熊楠思想の奥の院へ誘う。なるほど、こう攻めれば、熊楠の世界観がほどけてくる。読後、ぜひ著者に聞きたい重大疑問も、ちゃんと心に浮かんだ――「熊楠はなぜ下ネタ話が好きなの?」
しむらまさき/1977年、神奈川県生まれ。南方熊楠顕彰会理事、龍谷大学国際社会文化研究所研究員、慶應義塾大学非常勤講師。『南方熊楠のロンドン』でサントリー学芸賞、井筒俊彦学術賞を受賞。近著に『日本犬の誕生』『熊楠と幽霊』など。
あらまたひろし/1947年、東京都生まれ。作家、博物学者。幅広いジャンルで活動中。近著に『妖怪少年の日々 アラマタ自伝』。