それから時が経ち、福島市北部の地区が旧「献上桃の郷」であったことは、忘れられていった。だが、70代のAさんの世代にとっては誇らしい歴史の一つだ。「桃の品質では桑折町に負けていない」という自負もあった。
しかも、かつて個人で献上していたのは、Aさんのすぐ近くの農家だった。
「すごい人でした。枝の剪定(せんてい)のやり方一つ取っても違っていました。まず、桃の木の下にコンテナボックスを置き、そこに座って煙草を吹かします。下から見上げて養分の流れを見極めるのです。木の声を聞くというんでしょうか。桃を作るのは農家ではなく、桃の木です。農家は手入れをしているだけなのだなと感じさせる人でした」と解説する農家もいる。
ちなみに、Aさんの桃畑は地区で最も自然環境が厳しい場所にある。
もとは川原だった土地のようで、石がごろごろしていて堆積土が少ない。このため、水がザルのように抜けてしまう。そうした果樹園で土づくりから取り組むのは並大抵ではなかった。
川に近く、冷気を含んだ風が吹くので、モモせん孔細菌病が広がりやすい要素もあった。
同じ結果を出すにも、他の農家の3倍も手間が掛かる。にもかかわらず、地区を牽引するような桃を栽培してきたのは、人生を果樹栽培に賭けてきたからだ。
「地区を思う気持ちに付け入った容疑者は悪質です」
ある農家が悔しがる。「かつては『献上桃の郷』だったという誇り。研究熱心な農家が多い地区でも一二を争う品質へのこだわり。技術への自信。『献上』という言葉になびいてしまう条件がそろっていました。でも、根底にあったのは、風評被害に遭い、桃の病気にも追い詰められた地区を何とかしたいという熱い気持ちです。Aさんは『献上』を一つの突破口にしたいと考えたはず。これは、私達にも痛いほど分かります。そこに付け入った容疑者は非常に悪質です」。
さて、問題の発端となったモモせん孔細菌病だが、流行は3年間続いたのちに収まっていった。
「気候の影響もあったでしょう。各農家が罹患した枝を切り落とすなどした地道な対策の成果が出たとも考えられます。卵の殻を使った葉面散布剤は、決して悪いものではなかったと思いますが、使わなかった農家の畑でも同じように収束していきました」と、話す農家もいる。
販売会社の社長は「私も(自称教授に)だまされた」として福島県警に被害届を出している。
桃農家の間には、後味の悪さが残った。(#2に続く)