もともと、この区間は地味な存在だった。国鉄時代は芸備線の全線を走っていた急行列車は、JR化以前に備後落合~新見間の運行がなくなった。かつては道後山駅の裏手にスキー場があり、冬はスキーヤーで賑わった時期もあったそうだが、今は廃業して施設も撤去されてしまい、スキー場の痕跡は見られない。
観光客向けのイベント列車ともほとんど無縁だ。備後落合から分岐している木次線は、芸備線同様に平均通過人員の少なさに苦しんでいるが、同線では平成10(1998)年から20年以上トロッコ列車を運行して観光客を集めてきた(今年11月で運行終了予定)。松本清張の『砂の器』の舞台になった、という幸運もある。
それに比べると、1両編成の普通列車しか走らない芸備線は特徴もない地味な存在に映る。
だからなのか、松本清張だけでなく、他の作家も芸備線を舞台にしてこなかった。国鉄全線を完乗した紀行作家の宮脇俊三はさすがにこの区間にも何度か乗っているが、「(備中神代から)三次にかけての鄙びた風情は、日本全国を見渡しても比類がない」と評価し、昭和61(1986)年の夏に新見から備後落合まで乗ったときは「客もなく、見るべき絶景もなく、平凡な山かいの味を嚙みしめる」時間だったと形容している(『車窓はテレビより面白い』徳間書店)。
いざ「1日平均利用客数0人の駅」へ…
14時22分、定刻より9分遅れて道後山に到着。ホームに「標高六一一メートル」と記された標柱が建っている。東城駅から19キロで標高を300メートル以上上げてきたわけで、急勾配の連続だったのも頷ける。
かつてスキー客で賑わった駅らしく、列車行き違い用の反対ホームが駅舎の向かいに残っている。旧ホーム跡は今は工事中で、立ち入ることができない。ここも乗降客がなく、一瞬だけドアが開いてすぐ閉まり、発車していく。
時系列が前後するが、この道後山駅には後で立ち寄ってみた。他駅にもある「やっぱり、芸備線がええよのぉ!」の横断幕だけでなく、ホーム側の改札前には「国鉄ご利用ありがとうございます」というイラスト入りの看板が、「国鉄」の2文字を完全に消しきれないまま今も下車客を出迎える。
駅前通りを線路に沿って備後落合方面へ少し歩いたところに、道後山駅の開業記念碑が建っている。建立は「昭和十一年十一月」で、駅の設置が認められて「地方民衆の歡喜極りなし」と刻まれている。
だが、待合室は今も小ぎれいに整理されているものの、駅周辺に点在する民家の多くは、人が住んでいる気配がない。無人化されて久しい駅舎の一部は、消防車の車庫に改装されている。