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有村 僕のノリ自体は、イェーイって感じなんですよ。敵味方なく、世の中みんな良い人だと思っているから、誰とでも「イェーイ! じゃあパーティーやろうよ!」みたいな。

 性格に脇の甘さがあると同時に、「モテたい」という気持ちを強く抱えている。そんな僕のキャラクターからすると、あれは起こるべくして起きたスキャンダルだと思っています。全ては必然でした。

大学生でラジオパーソナリティとしてデビュー

――その話は後でじっくり聞かせていただきましょう! 高校時代はシンガーソングライターに憧れていたそうですね。

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有村 槇原敬之さんやKANさん、浅倉大介さんが好きでした。なにぶんお金のある家に育ったので、DTMで音源を自作したり、宅録できる環境を整えたりしていました。高校時代は大島さんという女の子が好きで、童貞ならではの暴走で大島さんのためにオリジナル曲を作っていたら、気づけば120曲くらいになり、PVまで作り始めました。

 17歳のくせに無駄にIMAGICA(映像制作などを手がける大手企業)に依頼して、やっぱり僕ってスーパー陽キャでしょう?(笑)まぁ作った曲を大島さんに聞いてもらう機会は結局なかったんですけどね。神崎くんに新曲を聞かせて、「コンちゃん、良い曲だね!」と褒めてもらっていました。

母親がシャンソン歌手で実は芸能一家 ©山元茂樹/文藝春秋

――親御さんは「遊んでばかりいないで勉強しなさい」というタイプではなかったんですか?

有村 うちの親は、息子はいずれ芸能界に行くと感じていたみたいで、特に何も言ってきませんでした。実家のホームパーティーでは僕も手品を披露したりして、そういった経験から「人を楽しませるのって良いな。エンターテインメントって素晴らしいな」と感じるようになりました。それで俳優を目指して、玉川大学で演劇を学びました。

――俳優志望でしたが、大学在学中にラジオパーソナリティとしてデビューしました。

有村 友達が就活でアナウンサー試験を受けると聞いて、自分も記念受験のつもりで挑戦してみたら、テレ東とTBSで最終面接まで残ったんですよ。となると、「どうも自分はしゃべりが向いているようだ」とその気になってきちゃった。でも地方局に行ってまでアナウンサーになりたいかというと、それはどうだろうとも感じて。ラジオも好きだったので、「じゃあラジオだ!」と決めました。それでニッポン放送に電話して、「僕をしゃべらせてください!」って(笑)。

 今思うと、怖いもの知らずにもほどがありますよね。でも当時の編成局長だった吉田さんという方が局を見学させてくれて、「コミュニティFMからやってみたら?」と勧めてくれました。そこでコミュニティFMというものを知って、あちこちに履歴書を送りました。

――それがきっかけで、コミュニティFMで番組を持って。

有村 はい。ギャラなんてあってないようなものですが、ありがたいことに番組をいくつか持たせていただき、好きな映画や音楽の話をするようになりました。神崎くんと一緒にやった番組もありますよ。誘ってみたら、「コンちゃん、やるよ!」と言ってくれました。