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発掘!文春アーカイブス

2018/05/05

source : 文藝春秋 1996年11月号

genre : ビジネス, メディア, 働き方, 企業, 商品

 ところが、社長はこのわずかに溜まったプラス分をファミコンにドーンと投資した。それが成功したのですから、勝負師といえるでしょう。私だって、最初それを聞いた時は、せっかくプラスになったのにそこまでしなくても……という気がしたほどです。

 つまり、馬券を1枚買ったらわずかに儲かった。それを全部次の馬に注ぎ込んだらまた当たったということが何度も起こって、任天堂が世界に名前を轟かすような企業になったのですから、これは社長のワンマン体制ぬきには語れません。

任天堂入社のきっかけとは

 その間、私にとっても、一応組織はあるが、あってないようなものという時代が続きました。

 なにしろ、私自身が社長の直接の部下という気持ちだったのです。組織的には、私のいた開発部は製造本部の1部門で、私と社長の間には製造本部長である常務が1人います。けれども実際は、社長は直接私に開発の話をするし、私は私の直属の上司である常務とはほとんど開発の話はしない。実質上、社長が開発本部長であり、開発部は製造本部とは別の部隊であるという状態だったのです。

 私の意見が役員を通り越して社長に直接に繫がりますから、ナンバーツーのような感覚を持つときもありました。これは私だけのことではなく、社員みんなが持っている感覚だったと思います。

 大体、私が任天堂に入社したこと自体が、いい加減な動機からでした。

 私は昭和40年に任天堂に入社したのですが、同志社大学の電気工学科を卒業したものの、恥ずかしながら成績は下から数えたほうが早いぐらい。就職活動をしても悉く落とされてしまった。

 そこでたまたまみつけたのが、任天堂からの電気工学科生の募集です。任天堂というとトランプや花札を作っている会社なのに、何で電気工学科の人間が必要なんだろうという疑問も感じましたが、ともかく京都にあって家から通えるというところが気に入って受けたら、採用通知がきました。

京都の任天堂本社工場 ©文藝春秋

退屈しのぎに玩具づくり

 出社してみると、部署は工務課。トランプや花札を製造する機械のメンテナンスをやる仕事です。当時、新しい法律ができて、30KVA以上の受電設備を有する企業は電気主任技術者を置かねばならないことになったそうなのですが、どうも、そのために採用されたようです。

 ところが、電気管理というのは退屈で仕方がない。もともと私は物作りが好きだったのですが、会社には立派な旋盤とか彫刻機といった機械が揃っている。そこで退屈凌ぎにいろんな玩具をつくって遊んでいたのです。

 ある時、社長が私の作った玩具を見て「お前、それを持ってちょっと役員室へ来い」と言う。てっきり怒られると思ってついて行ったら、いきなり社長に「それを商品化して売りたい」と言われました。

 今、考えてみると、それが私の人生のはじまりであり、ある意味では、「トランプ、花札の任天堂」が「世界の任天堂」に変わる最初の一歩だったかもしれません。

 入社してまだ1年も経たない、しかも玩具を商品化した経験もなければノウハウもない私が、見よう見真似で、金型の設計からどこで成形して組み立てるかということまでやった。

 それが『ウルトラハンド』という名前の商品になりました。

 いわゆるマジックハンドですが、当時東京オリンピックの名残りでウルトラCという言葉が流行っていたので、社長が『ウルトラハンド』という名前を考えたのです。

異例の140万個を売り上げた ウルトラハンド 写真提供:山崎功

 これが当たりました。なんと140万個も売れたのです。玩具は10万個売れたら大ヒットだと言われていた時代ですから、どれほどのヒットかおわかりいただけるでしょう。

たった2人でスタートした開発課

 そこで社長が、私のために開発課というのを作ってくれました。ところが私はまだ入社2年目の単なる開発課員。技術者も私1人。しかし、課ができれば経理関係のことも見なきゃならない、というわけでつけてくれたのがいまの広報室長で取締役の今西氏です。

 たった2人でスタートした開発課ですが、あの頃を楽しく思い出します。

 ピンポン玉を放り出してバッティングセンターのようにバットで打つ「ウルトラマシン」を開発したり、光線銃を作ったり。

 たった2人の開発課が「トランプの任天堂」を変えてゆくことになりました。