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 路地の合間には、お寺や神社もちらほらと。昭和レトロを名乗らなくても、充分に歴史のある町だということが伝わってくる。駅のすこし東側には住吉神社があるし、西には金剛寺。

 

 金剛寺は、平将門ゆかりの寺だ。願掛けをしたウメの木が繁殖し、願いが成就。そのウメの木も、実が熟しても青々としていたという。それが、「青梅」という地名の由来なのだという。平将門にまつわる伝説は、関東のそこかしこに伝わっているのだ。

「実に重要性の高い道」だった青梅街道

 江戸時代の青梅は、青梅街道の宿場町として栄えた。奥多摩の山から平野部に出る谷口集落という性質から、定期市がたって物資の集積地になっていた。たびたび大火に見舞われた江戸の町は木材の需要が大きく、青梅もそれで潤った。江戸城の修築に使われた石灰石も、青梅から運ばれたという。

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 また、織物の産地としても名高く、青梅縞や青梅錦はいまにも続く特産品。と、江戸の町にいちばん近い山の入り口、という性質から、単なる宿場町以上に栄えていたようだ。

 その根底にあった青梅街道も、江戸時代には実に重要性の高い道だった。青梅街道の役割は、甲州街道の裏街道。青梅市街を抜けると奥多摩方面を西に通貫。甲州に入ると大菩薩峠を越えて最後は甲府へ入って甲州街道と合流する(明治時代に大菩薩峠ではなく柳沢峠にルート変更されている)。

 あくまでも裏街道なので、お役人の監視の目も厳しくなかったのだろう。だから、幕末には志士たちも足繁く青梅街道を往来していたという。

 さらに、青梅は八王子と川越を結ぶ街道も通っていた。いまでいう、入間市や狭山市を通って川越へ。狭山から川越までは西武新宿線のルートに沿う。ここには入間川が流れていて、舟運輸送の拠点になっていたようだ。そうしたことから、1901年から1917年までのほんの短い期間、青梅と狭山を結ぶ中武馬車鉄道が通っていたこともあった。

 

 馬車鉄道だから、馬車が引っ張る。大変そうだなあと思うが、レールの上を車輪が走るのは普通の鉄道とおんなじ。人車鉄道という人が押して動かす鉄道もあったくらいだから、馬力をもってすれば意外とすんなりと動いたのだろう。この馬車鉄道の痕跡はほとんど残っていないが、駅西側の旧青梅街道沿いには、駅の跡地が碑としていまに伝えられている。

 こうした歴史的背景が、いまにいたっても青梅の町の基礎になっている。