島田洋七の著書『お笑いがばい交友譚』では、時代の顔といえる“大物”たちとのエピソードが綴られている。なかでも、弟弟子で「本当の弟のような存在」だという島田紳助氏とは現在でも月に1度は電話で話したり、メールでやり取りをしているという。2011年8月に引退会見を開いてから12年。「M-1グランプリ」の発案者でもあった島田氏の現在、互いに名司会者として一世を風靡した明石家さんまとの違いとは。(全2回の1回目/#2に続く)
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島田一門の教え
俺も紳助も無名の頃、うちの師匠は「私のまわりや家の中にはお金は落ちていない。お金は舞台の上に落ちている。だからはよ、相方を見つけなさい」と口癖のように言ってましたね。
弟子入りすると、数年間は身の回りの世話をしたり、芸事を習ったりと想像するかもしれないですけど、うちの師匠はそういうところが違った。島田一門では「早く相方を見つけて、漫才をやれ。師匠に気に入られても金にはならんぞ」。怒ることもほとんどなかったですしね。それで相方を見つけて、師匠にネタを見てもらおうとすると、「うちらは夫婦漫才だから、男同士の漫才なんてわからへん。10人でも、20人でも人前で漫才を披露してウケたら、それがあんたらのパターンの漫才やから」と言われましたね。俺ら弟子が舞台に上がると、舞台袖で見てくれて「もう少し声は大きいほうがエエな」とアドバイスしてくれる程度ですよ。
東京進出後、漫才ブームが起きる
俺らが若い頃は、うちの師匠を看板に漫才コンビが数組で中国地方や九州などを巡業にまわることがあったんですよ。まだまだ売れていない俺らも一緒についていって身の回りの世話や前座としてお客さんの前で漫才ができたんです。紳助もまだ相方の松本竜介と組む前には同行していました。喜多代師匠は着物で舞台に上がっていたから、紳助が着物を出したり、帯を渡したり、お茶を入れ替えたりしていましたね。巡業は大体が10日間くらい。初めて前座を務めさせてもらった後、「B&Bはウケるな。本舞台を踏めるように吉本へ言ったるわ。紳助もはよ相方を見つけて前座をやれ」と言われたのを覚えていますね。それで連れてきたのが竜介だったんです。